最初の数字に騙されるな。「アンカリング」の呪い
提示された数字が、あなたの判断の「碇(アンカー)」になる
ランチのメニューを見たとき、一番上に「特選ステーキ 5,000円」と書いてあると、その下の「ハンバーグ 2,000円」が安く見えた経験はないだろうか。これが行動経済学で最も強力な効果の一つ、「アンカリング効果」だ。カーネマンは、人間の脳(システム1: 直観に頼る速い思考)は最初に目にした数字を基準点(アンカー)とし、そこから調整して価値を判断する癖があると指摘する。
恐ろしいのは、そのアンカーとなる数字が、全く無関係なものであっても影響を受けてしまう点だ。実験では、ルーレットで出たランダムな数字を見せられた被験者が、その直後の質問(国連加盟国のアフリカ諸国の割合など)において、ルーレットの数字に近い回答をしてしまった。我々の判断は、直前に見た「何の意味もない数字」によって、いとも簡単に操られてしまうのである。
不当な高値ふっかけは、理にかなった戦略だった
この心理効果を知っている交渉のプロや商売人は、あえて最初に「ふっかけた」条件を提示する。不動産屋が高い物件を最初に見せるのも、給与交渉で希望額を先に言わせようとするのも、すべては相手の脳に「高いアンカー」を打ち込むためだ。一度アンカーが設定されると、そこからの調整は不十分なものになりがちで、結果として提示側の有利な価格に着地する。
多くの人は「自分は賢いから騙されない」と思っているが、アンカリングは無意識下で働くため、抵抗するのは極めて難しい。スーパーの「お一人様3点限り」という表示も、購入量の上限というアンカーを設定することで、本来1点しか買うつもりのなかった客に「3点近くまで買ってもいい」という暗示を与えている。我々の自由意志は、たった一つの数字の前で無力化されているのだ。
交渉のテーブルで主導権を握るための防御策
では、この呪縛から逃れる術はあるのか?
もし相手が不当な数字(極端なアンカー)を提示してきたら、絶対にそれを受け入れて交渉を始めてはいけない。その数字を基準に「少し下げてくれ」と頼んだ時点で、あなたはすでに相手の掌の上だ。大げさに驚いて見せ、席を立つふりをしてでも、その数字を無効化し、新たな基準を設定し直さなければならない。
あるいは、自分から先に数字を提示する「先制攻撃」も有効だ。常識的な範囲で強気の数字を出し、相手の思考をその数字に縛り付ける。月曜のランチタイム、メニューの価格を見る目が少し変わったのではないだろうか。提示された数字は単なる情報ではなく、あなたの財布を狙う「心理的な罠」かもしれないと疑うこと。それが賢明な消費者の第一歩である。
脳の「調整不足」を自覚し、数字を疑え
アンカリングの正体は、システム2(遅い思考)の怠慢による「調整不足」だ。我々は基準点から離れるための努力を途中でやめてしまう。だからこそ、大きな買い物をするときは、提示された価格だけでなく、類似商品の相場や原価など、別の「対抗アンカー」を自分で用意する必要がある。
数字は嘘をつかないと言うが、数字を使う人間は嘘をつくし、数字を受け取る脳はもっと嘘をつく。最初の印象に飛びつく直感を抑え込み、冷徹な計算機のように情報を精査する。そうすることで初めて、我々は価格という名の幻想から解放され、物の真の価値を見極めることができるようになるのだ。