「駄作」な人生を「名画」に変える
誰も君の「ノーカット版」人生になど興味がない
もし、アカデミー賞を受賞するような名作映画と、親戚のおじさんが正月に無理やり見せてくる退屈なホームビデオ、その決定的な違いが何かご存知だろうか?
予算? 俳優の顔面偏差値? いや、違う。答えは「編集室の床」にある。
名作映画の監督は、撮影した何千時間ものフィルムの大半を、冷酷なまでに切り捨てている。どんなに苦労して撮ったシーンでも、どんなに金がかかったセットでも、ストーリーの本筋に貢献しないなら、容赦なくゴミ箱行きだ。彼らは知っているのだ。観客の心を動かすのは、画面に映っているものだけではなく、「何が映っていないか」であることを。
一方で、私たちの人生はどうだろうか。
私たちは「人生」という映画の監督でありながら、あまりにも無能な編集者だ。「せっかく撮ったから」「いつか使うかもしれないから」といって、全てのシーン——退屈な会議、義理だけの飲み会、意味のないSNSチェック、どうでもいい人間関係——を本編に残そうとする。
その結果、出来上がるのは何か? 焦点が定まらず、間延びし、何を伝えたいのかさっぱり分からない、3時間の長尺ホームビデオだ。そんなものを死ぬ間際に見せられて、私たちは「いい人生だった」と感動できるだろうか? 観客(周囲の人々)はあくびを噛み殺しているに違いない。
経営者=編集長という視点
Twitter(現X)の創業者、ジャック・ドーシーはかつて自分自身を「企業の最高編集責任者(Chief Editor)」と定義していた。
彼の仕事は、コードを書くことでも、会議を仕切ることでもない。社内に溢れる無数のアイデア、機能、プロジェクトの中から、本当に重要なもの以外を「削除」することだ。彼は常に問い続けている。「この機能は本当に必要か?」「このプロジェクトは我々のミッションを薄めていないか?」。
私たちも、自分の人生に対して同じスタンスを取るべきかもしれない。「編集」とは、単に間違いを直すことではない。それは「修正(Correction)」だ。真の編集とは、良いものの中から「最高のもの」だけを選び出し、それ以外を切り捨て、「凝縮(Condensation)」する作業なのだ。
この作業は痛みを伴う。愛着のある趣味、そこそこ楽しい予定、悪くはない仕事のオファー。それらを「最高ではない」という理由だけで切り捨てるには、サディスティックなまでの冷徹さが必要だ。だが、その痛みの先にしか、クリスタルのように透明で硬質な「本質の人生」は現れない。
引き算の美学
私たちは「足し算」が成功への道だと教え込まれてきた。もっとスキルを、もっと人脈を、もっと経験を。だが、現代においてそれは逆効果だ。ノイズが多すぎる世界では、「引き算」こそが最強の差別化になる。
スティーブ・ジョブズがAppleに復帰した時、彼は何をしたか? 数十あった製品ラインナップを、たったの4つに絞り込んだ。彼は「何をしないか」を決めることで、Appleを破綻寸前から世界一の企業へと変貌させた。
私たちの人生という編集室の床には、もっと多くのフィルムが散らばっているべきだ。切り捨てられた「そこそこ良いシーン」の山こそが、残された本編の輝きを保証する。
さあ、ハサミを持とう。そして、自分自身に問いかけよう。「このシーンは、私の人生という映画のクライマックスに本当に必要なのか?」。もし答えがノーなら、迷わずカットだ。観客は、そして何よりあなた自身は、短くても密度の濃い傑作を待っているのだから。
