教養・コラム

臭い救世主にして破壊神

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80億人を養う劇薬

もし、明日から世界中のアンモニア合成が止まったら、どうなるか。 答えは単純だ。数ヶ月のうちに、世界人口の約半分、約40億人が日々の糧を失い、消えてなくなる。

私たちがスーパーで手に取る瑞々しい野菜も、ふっくらとした米も、その実体は固定された窒素の塊だ。100年以上前、ハーバーとボッシュが、天然ガスの水素と空気中の窒素を高温高圧で無理やり結びつける「ハーバー・ボッシュ法」を発明しなければ、私たちは今頃、痩せ細った大地を奪い合っていただろう。

アンモニアというドーピング

かつての農業は、家畜の糞や堆肥を回すだけの、穏やかな循環の中にあった。だが、人類はより多くの収穫を求め、化学の力でドーピングを始めた。

仕組みはこうだ。 まず、天然ガスを原料にして水素を取り出す。それを空気中の窒素と、ものすごい熱と圧力で合体させる。こうして生まれた化合物がアンモニア(肥料)だ。

つまり、私たちは天然ガスという化石エネルギーを、アンモニアという形に変えて畑に撒いているわけだ。 だが、この大量に供給された窒素を、植物はすべて吸収しきれるわけではない。余った窒素は大地から溢れ出し、川を下り、海へと流れていく。 問題はここからだ。海へ流れ込んだ大量の窒素は、藻(も)を爆発的に増殖させる。大量発生した藻は、死ぬと分解される際に水中の酸素を食い尽くしてしまう。 その結果、何が起きるか。沿岸域に、魚も貝も息ができない「デッドゾーン(死の海域)」が広がるのだ。私たちの胃袋を満たす代償として、海中の生命は静かに窒息させられている。

オーガニックという名の贅沢

一方で、こうした化学肥料の害を避けようと、有機農法(オーガニック)に救いを求める声も大きい。 だが、スマートなレストランで「私たちはオーガニックを選んでいる」と語る時、私たちはある残酷な計算を忘れている。

有機農法は素晴らしいが、それは自然のサイクルに頼るため、収穫量には限界がある。極論すると、もし世界中が明日から全ての肥料を有機に変えたら、残りの40億人は飢えるしかない。

私たちがオーガニックという選択肢を楽しめるのは、裏でハーバー・ボッシュ法が大多数の食糧を一手に引き受け、社会全体のカロリーを担保してくれているからに過ぎない。その皿の潔白さは、汚れた工場の煙突と、窒息する海によって支えられているのだ。

今日のコツ:トレードオフの請求書を見る

何かを得れば、必ず何かを失う。このトレードオフからは誰も逃げられない。 私たちは「40億人の命」を得るために、「窒素による環境汚染」というコストを支払っている。それが現実だ。

だからこそ、安易な解決策に飛びついてはいけない。「完全にクリーンな食卓」などという幻想は捨てよう。その代わり、目の前の食事には、環境という膨大な機会費用がかかっていることを直視するのだ。 この巨大なコストに見合うだけの価値ある仕事や生活を、今日あなたは送れているだろうか。その問いだけが、私たちにできる唯一の誠実な支払いなのだ。

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