何者かになるためのブランディングという病【『ドッペルゲンガー』1/6】
「何者か」になろうと焦っていないか
現代のビジネス環境において、パーソナルブランディングは半ば義務のように語られている。SNSで気の利いた発信をし、独自のスキルをアピールし、フォロワーという名の顧客を獲得しなければ、厳しい社会を生き残れないという強迫観念だ。タイパやコスパを極めようとする人ほど、自分自身の見せ方を最適化し、どこに出しても恥ずかしくない完璧な自分をネット上に構築しようと必死になっている。
しかし、自分を一つの商品やブランドとして磨き上げようとするその行為は、本当にあなたの人生を豊かにしているのだろうか。何者かにならなければという焦りに突き動かされ、常に他人の目を意識して発信を続けるうちに、現実の生身の自分と、ネット上に作り上げた理想の自分との間に、埋めようのない深い溝ができていることに気づいていないだろうか。効率的に自分を売り込もうとする努力が、皮肉にもあなたから本来の自由を奪い去っているのである。
完璧な「もう一人の自分」という罠
『ドッペルゲンガー 鏡の世界への旅』著者でジャーナリストのナオミ・クラインは、ある奇妙な体験に長年悩まされてきた。同じ「ナオミ」という名を持つ別の著名ジャーナリスト、ナオミ・ウルフと世間から混同され続けるという体験だ。ウルフはかつて左派フェミニストの論客として知られていたが、コロナ禍を経て陰謀論に傾倒し、極右メディアの常連となっていた。クラインは自分が書いてもいない陰謀論的な発言をしたと非難され、あるいは称賛されるという不条理な日々を送ったのである。
クラインはこの個人的な体験を出発点とし、現代社会において誰もがデジタル空間に作り上げたもう一人の自分、すなわちドッペルゲンガーに乗っ取られるリスクを抱えていると警告している。私たちがSNS上に構築するパーソナルブランドこそが、まさにこの分身である。私たちは、アルゴリズムに好まれ、他者から称賛されるよう最適化された完璧なアバターを作り出し、いいねや数字だけが支配する鏡の世界(デジタル空間という歪んだ仮想空間)へと放つ。最初は自分がその分身をコントロールしているつもりでも、鏡の世界で分身が肥大化するにつれ、現実の自分の行動や思考までもが、その完璧なイメージを維持するために縛り付けられていくのだ。
ブランド化がもたらす自己の喪失
自分をブランド化するということは、本質的に自分自身を非人間的なオブジェクト(モノ)に引き下げる行為に他ならない。モノである以上、それは常に市場の評価やインプレッションに晒され、消費され、時には激しいバッシングの対象となる。現実の人間は矛盾を抱え、変化し、時には失敗するものだが、デジタル上のブランドには一貫性と完璧さが求められる。そのギャップが、私たちの精神を確実に蝕んでいく。
鏡の世界に住むドッペルゲンガーが賞賛を浴びれば有頂天になり、炎上すれば自分の人格そのものが否定されたように深く傷つく。自分を商品化して市場に差し出した瞬間、私たちは複雑で矛盾を抱えた生身の人間としての特権を失い、アルゴリズムと他者の欲望の奴隷に成り下がってしまうのである。効率よく承認欲求を満たすためのツールだったはずのパーソナルブランドが、いつの間にか私たちの精神を侵食し、現実の自分を飲み込む怪物へと変貌しているのだ。
エゴを手放し、生身の自分を取り戻せるか
冒頭の問いに戻ろう。SNS上で何者かになるための努力は、実のところ、あなたから真の自由を奪い去る呪縛でしかない。私たちが情報過多の現代において正気を保ち続けるためには、他者の評価によって作られた鏡の世界の分身への執着を捨て、どれほど不完全であっても、市場価値など測れない生身の自分を取り戻す必要がある。デジタル上の虚像を維持するために浪費されるエネルギーを、現実の生活へと還元しなければならない。
そのための極めて実戦的な自己投資として、自分を特別視する肥大化した自己愛こそが最大の敵であると看破した世界的名著、ライアン・ホリデイの『エゴを抑える技術』へと手を伸ばしてみてはどうだろうか。何者かになりたいというエゴを静かに手放し、ネット上の見栄ではなく、目の前の泥臭い現実に真摯に向き合い続けること。それが、自らが作り出したドッペルゲンガーの恐怖から逃れ、地に足のついた本当の人生を歩むための確かな道標となるはずだ。
『ドッペルゲンガー』シリーズ (全6回)




