娘に見せた「拒絶」という名の愛
八方美人でありたいという病
私たちは皆、どこかで「良い人」でありたいと願っている。そして、誰かの誘いを断れば、相手を傷つけるのではないか、嫌われるのではないか、もう二度と誘われないのではないかと恐れる。そんな恐怖心が、私たちの唇から自動的に「イエス」という言葉を引き出す。まるでパブロフの犬のように。
だが、全ての「イエス」には裏面がある。誰かのリクエストにイエスと言うことは、他の何か——おそらくもっと重要な何か——に「ノー」と言うことなのだ。
ここに、エッセンシャル思考の真髄を示す、あまりにも有名なエピソードがある。主役は『7つの習慣』の著者として知られるスティーブン・R・コヴィーだ。彼はある日、娘とサンフランシスコで二人きりのデートを楽しむ約束をしていた。観光し、美味しいものを食べ、語り合う。完璧な計画だった。
しかし、予期せぬ事態が起きる。街で偶然、仕事上の重要な知人(旧友)に出くわしたのだ。その知人はコヴィーとの再会を喜び、「これから最高のシーフードレストランに行こう。もちろん私の奢りだ」と熱心に誘ってきた。
さあ、私たちならどうするだろうか?
普通の「良い人」ならこう考えるだろう。「せっかくの誘いだし、無下にするのは失礼だ」「ビジネスにも繋がるかもしれない」「娘も美味しいご飯が食べられるなら喜ぶだろう」。そして、愛想笑いを浮かべて食事に向かう。心の中で「娘との時間は少し減るけれど、仕方ない」と言い訳をしながら。
拒絶する勇気
だが、コヴィーは違った。彼は一瞬の迷いもなく、しかし最大限の敬意を込めてこう言った。「会えて嬉しいよ。でも今日は遠慮しておく。サンドラと特別なデートの約束があるんだ」。
知人は一瞬驚き、気まずい沈黙が流れたかもしれない。だがコヴィーは動じなかった。彼は友人の期待よりも、娘との約束——自分にとっての「本質」——を選んだのだ。そして娘の手を引き、その場を去った。
結果はどうだったか? 娘はその瞬間のことを大人になっても鮮明に覚えていた。「父にとって、私が誰よりも、何よりも大切なんだということがわかった」。そのたった一度の「ノー」が、父娘の絆を永遠のものにしたのだ。
もしコヴィーが流されて食事に行っていたら? 友人は満足したかもしれない。だが、娘の心には「パパは私よりも仕事や友人を優先する」という小さな、しかし消えない傷が残っただろう。そしてコヴィー自身も、退屈な社交辞令を交わしながら、心ここにあらずの時間を過ごしたに違いない。
尊敬は「拒絶」から生まれる
私たちは「ノー」と言うことを恐れすぎているのかもしれない。だが実際には、明確な基準を持って「ノー」と言える人間こそが、周囲から尊敬されるのだ。「あの人は自分の時間を大切にしている」「あの人がイエスと言うときは、本気だということだ」。そんな信頼が生まれる。逆に、何でも安請け合いする人間は、都合のいい「便利屋」として扱われるのがオチだ。
断る瞬間の気まずさは、せいぜい数分で消える。しかし、重要でないことに時間を費やした後悔は、一生続くかもしれない。
私たちは一体、誰の人生を生きているのだろうか? 上司のため? クライアントのため? それとも、たまたま出会った知人のため? 違うはずだ。私たちには私たちの守るべき「本質」があるはずだ。家族との時間、自分の健康、人生を賭けたプロジェクト。それらを守るためには、フェンスが必要だ。そのフェンスの扉には、こう書いた鍵をかけておくべきだ。「NO」。
一瞬の気まずさに耐える勇気を持とう。その先には、誰にも邪魔されない、私たち自身の自由で本質的な人生が待っているのだから。
