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第3話『限りある時間の使い方』

コツ活 第3話『限りある時間の使い方』オリバー・バークマン|古書店のカウンター
コツ活 編集部
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今夜の1冊

  • 著者:オリバー・バークマン/:高橋璃子
  • どんな本か:八十年生きても四千週間しかない、という数え方から始まる本だ。時間術の本に見えて、中身は逆で、効率を上げるほど片づけるものが増えるという話をしている。だから全部やるのは諦めろ、というところに着地する。

朗読で聴く

この記事の物語部分はフィクションです。登場人物・書店・会話はすべて架空で、実在の人物・団体とは関係ありません。

取り上げる書籍は実在しますが、作中の要約・解釈・批評は編集部による独自のもので、著者・出版社の見解を代弁するものではありません(正確な内容は原書でお確かめください)。

第3話『限りある時間の使い方』

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目次
本文
オープニング
コツ活 第三話 限りある時間の使い方
第一章 二十三件
月曜の夜だった。
コツ太は入社して6年目になる。日用品を作って、全国の営業所を通して売る会社で、営業のうしろを支える仕事をしている。
八時を回ったところで、コツ太は手元の紙を数えた。抱えている案件が、23件ある。
数えたのは、少しでも減った実感がほしかったからだ。金曜に数えたときも23件だった。この一週間で12件片づけている。それでも23件のままだった。
片づけた数だけ、新しいのが入る。それが分かっていても、翌朝また片づけにかかる。
コツ太は残業時間の表を開いた。今月はここまでで、週に14時間。先月も14時間。その前も似たようなものだった。
不思議なのは、六年前より確実に速くなっていることだった。同じ作業にかかる時間は半分以下になっている。定型のものは手が覚えているし、聞かなくても分かることが増えた。
速くなったぶんは、どこへ行ったのか。
答えは分かっている。速くなったから、頼まれる数が増えた。
課長コツ太くん、まだいる?
課長が通りかかった。鞄を持っている。
課長はい
コツ太悪いけど、明日の朝いちで、北関東の在庫の件だけ見といて
課長分かりました
課長は行った。24件になった。
コツ太は椅子の背に体重を預けて、天井を見た。
明日また12件片づける。そして金曜に数えたら、たぶん23件ある。
第二章 灯りのある路地
その日は、まっすぐ帰る気にならなかった。
駅までの道を途中で外れて、細い路地に折れた。何度か来ている道だ。奥にひとつだけ灯りがある。ガラス越しの明かりが、歩道まで届いていた。
夕方に開いて、夜まで開けている店だ。引き戸を開けると、紙と、コーヒーの匂いがした。入ってすぐの平台に新刊が積んである。その先に喫茶の席が三つ四つ。いちばん奥は天井までの棚だ。
コツ太は席のひとつに座った。
第三章 何件あるんですか
すずいらっしゃいませ
カウンターの奥から、若い店員が顔を出した。すず、という名札をつけている。何度か顔を合わせているので、コツ太もいまさら名乗らない。
すずコーヒーください
コツ太はい。深煎りでもいいですか
すずなんでも
すずは豆を挽きはじめた。音がして、話さなくていい時間ができた。
コーヒーが出てきた。ひとくち飲んでから、コツ太は口を開いた。
コツ太仕事、終わらないんですよね
すず何件あるんですか
聞き方が素直だったので、コツ太はつい数を答えてしまった。
コツ太23件
すずわあ
コツ太先週も23件でした。その前も
すず減らないんですか
コツ太12件片づけたんですけどね
すずは布巾を止めて、少し考えた。
すずそれ、片づけたのに減ってないってことですよね
コツ太そうです
すずなんか、こわいですね
コツ太は笑った。こわい、という言葉が出るとは思わなかった。ただ、言われてみると、そのとおりだった。
第四章 速くすると増える
奥の作業台のほうから音がして、年配の男が出てきた。前掛けで手を拭いている。すずが店長と呼んでいる人だ。
店長23件と言ったかね
コツ太聞こえてました?
店長聞こえた
店長はカウンターの内側に入って、湯を沸かしはじめた。
店長六年目だったか
コツ太はい
店長六年前より速くなったろう
コツ太速くなりました。倍くらいは
店長それで、なぜ減らんのだと思うね
コツ太は少し考えた。
コツ太僕の速さが、まだ足りないからだと思ってました
店長逆だよ
店長は湯の様子を見ながら言った。
店長速くなったから、増えたんだ
コツ太増えた?
店長あんたが速いと分かれば、頼むほうは頼む。遅ければ頼まない。それだけの話でね
コツ太はカップを持ったまま黙った。
さっきの課長の言い方を思い返した。悪いけど、で始まる頼み方は、断られないと分かっている頼み方だ。断られないと分かっているのは、コツ太が六年間、一度も断らなかったからだ。
課長じゃあ、速くならないほうがいいってことですか
店長そうは言っとらん。速いのは腕だ。腕は減らんよ
店長は奥の棚のほうへ行った。少し探して、一冊を持って戻ってきた。表紙に、砂時計のような絵がある。
店長これだ
コツ太限りある時間の使い方
店長時間術の本の顔をしているが、中身は逆でね。時間術をやめろと書いてある
第五章 閉じたリストという言葉
コツ太どうすれば終わるって書いてあるんですか
店長終わらせるのを諦めろ、と書いてある
コツ太諦める
店長そうだ。そのうえで、閉じたリストを作る
すずが手を止めた。
すずあの、閉じたリストって何ですか
店長英語だとクローズド・リストという。数を先に決めてしまうリストのことだ
店長は本をコツ太のほうへ押した。
第六章 この著者は自分で選べる
店長使えそうです
コツ太がそう言うと、店長は少し黙った。
店長使えるところと、使えないところがある。使えないほうを先に言っておこう
コツ太はい
店長この著者は、何をしている人だと思うね
コツ太書く人ですよね
店長新聞に書いていた人だ。いまは自分で書いて、自分で出している
店長は本を閉じて、表紙を指で叩いた。
コツ太つまり、何を書くかを自分で決められる
コツ太は、その意味を掴みかねた。
コツ太閉じたリストというのはね、十一件目を待たせる話だ。待たせるには、待たせていいと決める権利が要る
店長
コツ太あんたの十一件目は、誰が持ってくるね
コツ太課長です
店長待たせられるかね
コツ太は答えられなかった。
店長それから、何に失敗するかを先に決める、というほうだ。これも同じでね。落とすと決めた仕事は、誰のものかね
コツ太会社のです
店長そうだ。あんたのものじゃない
店長はカウンターに本を置いた。
店長受信箱に何が入るかを決められん人のことも、書いてはいる。ただ、その人がどうすればいいかは書いておらん。気の毒だ、で終わっている
第七章 落とすと誰に断るのか
平台のほうで、本を並べていた女性が顔を上げた。ハルさんという。店長の奥さんで、新刊のほうを見ている人だ。
ハルその落とすっていうの、誰に断るの
コツ太
ハル落とすんでしょう。誰かに言うの、言わないの
コツ太は答えに詰まった。言うつもりはなかった。自分の中で決めるだけの話だと思っていた。
コツ太言わないと思います
ハルじゃあ、落ちたのに気づくのは誰かしらね
ハルさんは並べる手を止めずに言った。責める言い方ではなかった。単に、そうだよね、という言い方だった。
店長ハル。話の途中だ
ハル途中でも言っときますよ
すずが小さく笑った。
コツ太も笑ったが、頭の隅で引っかかっていた。落ちたのに気づくのは誰か。自分ではない。
店長そこも書いてある
コツ太ただし、この人の書き方では、あんたの立場に届かん。そこは自分で埋めるしかない
コツ太は本の値札を見た。1,760円。
コツ太買います
ハル英語じゃないよ。日本語で出てる
すず助かります
すずがレジを打った。
すずまたコーヒー飲みに来てくださいね。明日のは浅煎りです
第八章 三件だけの週
その夜、コツ太は帰りの電車で本を開いた。
序章は、四千週間の話だった。八十年生きても、週にすると四千。人は無限に近い計画を立てられるのに、実行する時間がほとんど無い。そういう話から始まっていた。
正直、こたえた。自分の残りが二千いくつだと思うと、23件の重さが変わって見えた。
二章は、梯子の話だった。
受信箱に入ってくる数には、上限が無い。誰でも、いつでも、ほとんど手間もかけずに、こちらの一日に何かを放り込める。ところが、こちらが処理できる数には上限がある。だから処理が速くなればなるほど、梯子を速く上っているだけになる。上ったぶん、上に継ぎ足される。
コツ太は電車の窓を見た。自分の六年が、そのまま書いてあった。
続けて、著者はこう書いていた。急ぎで小さい仕事は、きちんと終わる。大事で大きい仕事は、いつまでも後回しになる。なぜなら、大事なほうは腰を据える時間が要ると思っていて、その時間は「小さいのを片づけてから」作るつもりでいるからだ。ところが片づけ終わらないので、その時間は永久に来ない。
そうやって何年も無駄にできる、と書いてあった。
コツ太は自分の六年を数えた。ちょうど何年もだった。
家に着いて、風呂に入って、続きを開いた。二章の途中まで読んだところで、目次に戻った。巻末に実践の一覧があるのが見えたからだ。
コツ太はそこへ飛んだ。
閉じたリスト。開いたリストは、いくらでも書き足せる。あの23件がそれだ。閉じたリストは、たとえば十件と数を決めて、ひとつ終わるまで十一件目を足さない。空きが出るまで待たせる。
待たせる、という言い方が引っかかった。待たせていいと決める権利が、自分にあるだろうか。
それから、先に失敗を決める。どうせ全部はできないのだから、後から慌てて落とすのではなく、どれを落とすかを最初に決めておく。決めてあれば、落ちたときに落ち込まずに済む。
読み終えて、紙を出した。23件を眺めて、3件だけ丸をつけた。カタログの入稿、月次の集計、営業所からの問い合わせ。残りの20件は、来週以降にする。
先に失敗を決めるほうも書いた。社内の共有フォルダの整理。誰にも頼まれていないが、半年前から気になっていた作業だ。これは今月やらない、と決めた。
決めたら、少し楽になった。
火曜、3件だけを見た。
驚くほど進んだ。頭の中で二十いくつの仕事が同時に鳴っていない、というだけで、こんなに違うのかと思った。夕方には2件が終わった。
水曜、定時で帰った。入社以来、月曜以外で定時に帰ったのは数えるほどしかない。
木曜も定時だった。今週の残業は、いまのところ2時間しかない。いつもは14時間だ。
帰りの電車で、コツ太は少し得意だった。梯子を上るのをやめただけで、こんなに変わるのか。
第九章 落とした一件
金曜の午後、電話が鳴った。
営業所販促の資材、まだ届かないんだけど
北関東の営業所からだった。
コツ太はリストを見た。3件に入っていない。20件のほうにある。
コツ太来週の手配になります。今週は別の件を先に
営業所来週?
声が変わった。
営業所うち、来週の土曜から店頭で使うんだよ。印刷は五営業日かかる。今日出さないと間に合わない
コツ太は日付を数えた。合っていた。今日出さないと、間に合わない。
コツ太すみません。今日中に出します
電話を切って、コツ太はしばらく動けなかった。
自分は、落とすものを先に決めていた。決めたのは共有フォルダの整理だ。これではない。
これは、決めずに落ちた。3件に絞った時点で、残りの20件がどうなるかを、一度も考えていなかった。
本には、先に決めろと書いてあった。決めたつもりだった。決めたのは、誰にも頼まれていない仕事のほうだった。頼まれていない仕事を落としても、誰も困らない。落として痛いのは、頼まれている仕事のほうだ。
そして、頼まれている仕事を落とすかどうかは、自分では決められない。
その日、コツ太は残業した。資材の手配を通して、印刷所に頭を下げて、日程を一日詰めてもらった。帰りは十時を過ぎた。
今週の残業は、結局6時間になった。14時間よりは短い。ただ、内訳が違う。前は片づけるために残っていた。今日は謝るために残っていた。
第10章 巻末だけ読んでいた
その夜、コツ太は本を開き直した。
まず、自分がどこまで読んだかを確かめた。二章の途中で目次に戻って、巻末へ飛んでいた。真ん中を丸ごと飛ばしている。
飛ばしたところに、こう書いてあった。
必要なのは効率を上げる技術ではなく、その逆の、片づけないでいる力だ。片づいていない不安に耐えたまま、いちばん大事なものに向かう。その間も机の上は増え続けるし、一生手をつけないものも出てくる。それを承知で進む。
承知で進む、と書いてある。コツ太は承知していなかった。3件に絞ったとき、残りの20件は「来週やる」と思っていた。減ると思っていた。
もうひとつ、著者について気づいたことがあった。
この人は、新聞に書いていた人で、いまは自分で書いて自分で出している。何を書くかも、いつ書くかも、自分で決められる。閉じたリストの十一件目を待たせられるのは、待たせても文句を言う人がいないからだ。
コツ太の十一件目は、課長が持ってくる。待たせるには、課長にそう言わなければならない。
言えるだろうか。
考えて、コツ太は自分の六年を思い返した。
一度も断ったことがない。無理です、と言ったことがない。だから課長は、全部できる人だと思っている。
それは、課長が勝手にそう思ったのではなかった。コツ太が六年かけて作った印象だった。
じゃあ、と思った。
断るのが無理でも、量を見せることはできるんじゃないか。
第11章 二時間が余った日
火曜の午後、コツ太は妙なことに気づいた。
3件のうち2件が終わっていた。残りは月次の集計だけで、それも締切は金曜だ。時計を見ると、まだ三時だった。
二時間、空いている。
六年で一度も無かったことだった。コツ太は企画書のファイルを開いた。来月の販売会議に出す案だ。先月から一文字も書いていない。
書けなかった。
十分ほど画面を見て、それから手が勝手にメールを開いた。新しいのは二通。どちらも急がない。閉じた。
また画面に戻る。三行書いて、消した。
気づくと、また受信箱を開いていた。
コツ太は自分の手を見た。二時間くれと、ずっと思っていた。もらった。使えていない。
隣の課の同期が通りかかって、コーヒーを飲みに行こうと誘ってきた。断る理由は無かった。ついていった。
戻ってきたら、四時半だった。
第12章 待てない
その夜、コツ太は路地に折れた。
すずいらっしゃいませ。今日は早いですね
コツ太定時で帰りました
すずすごい。何してたんですか、浮いた時間
コツ太は答えに詰まった。
コツ太企画書を書こうとして、三行書いて消して、メールを見て、コーヒー飲んで、終わりです
すずあー
すずは豆を挽きはじめた。音がして、少し間があいた。
すずわたしもです。閉店したあと、レジ締めが早く終わった日って、逆に何もしないんですよね
コツ太何もしない
すずはい。だらだら棚を見て、結局帰ります。忙しい日のほうが、家でちゃんとご飯作ったりする
コツ太は、それを聞いて少し楽になった。自分だけではないらしい。
奥から店長が出てきた。前掛けで手を拭いている。
店長その本の真ん中あたりは読んだかね
コツ太飛ばしました。巻末に行きました
店長だろうね。そこに、あんたが今日やったことが書いてある
コツ太は鞄から本を出した。栞は二章に挟まったままだ。
店長速さに慣れた人間は、遅いものに耐えられなくなる。著者はそれを、酒と同じ形だと書いている
コツ太酒ですか
店長不安だから飲む。飲むと一時は楽になる。そのぶん、あとで不安が増える。それでまた飲む
コツ太は湯気を見ていた。言われてみると、自分の一日がそのままだった。
コツ太速くやると一時は片づく。片づけるほど増える。増えると焦って、また速くやる
店長そういうことでね
コツ太じゃあ、今日、二時間もらって何もできなかったのは
店長時間が足りなかったんじゃない。待てなかっただけだ
すずが手を止めた。
すずそれ、練習でどうにかなるやつですか
店長は答えなかった。かわりに、奥の棚のほうへ行った。
すず聞いてるのに
コツ太は笑った。ただ、すずの質問が自分の聞きたかったことだと気づいた。
待てないのが原因なら、直せるのは自分だ。課長も、23件も、関係ない。
六年ではじめて、自分の側だけで動かせるものが出てきた。
第13章 三時間ひとつの絵を見る
すずがコーヒーを持ってきた。今日はネルで淹れていた。布の袋を絞る手つきが、見ていて危なげない。
すずその本、そういうことも書いてあるんですか
コツ太たぶん。まだ読んでません
店長面白い話が載っていてね。アメリカの大学に、美術の先生がいる
店長はカウンターに肘をついた。
店長その先生の最初の宿題は、決まっている。美術館へ行って、絵をひとつ選んで、三時間見てこい
すず三時間
コツ太一枚をですか
店長一枚をだ。携帯は預ける。コーヒーも買いに行かせん
コツ太は想像してみた。三十分でもきついと思った。
すずそれ、蒸らしと同じですね
コツ太蒸らし
すずドリップの最初です。お湯をちょっとだけかけて、そのあと三十秒、何もしないで待つんですよ
すずはドリッパーを指した。
すずその三十秒って、外から見ると何も起きてないんです。だから初めてやる人は、必ず飛ばします
コツ太飛ばすとどうなるんですか
すず薄くなります。同じ豆で、同じお湯で、量も一緒でも
コツ太は自分のカップを見た。三十秒の差が味になるという感覚が、うまく掴めなかった。
すずわたしも最初は飛ばしてました。三十秒って、立って待つと結構長いんです
店長先生自身もやってみたそうだ。少年とリスの絵でね。少年の耳の形とリスの腹の毛並みが同じだと気づくのに、九分かかった
すず九分。それは長いなあ
店長背景のカーテンの皺が、その少年の耳と目を写したものだと分かるのに、四十五分だ
すずは布巾を持ったまま、少し考えていた。
すずじゃあ、四十四分までは、見てないのと同じってことですよね
店長そういうことだね
コツ太は自分の企画書を思った。三行書いて消したのは、たぶん、三行ぶんしか待てなかったからだ。
コツ太僕の待てる長さは、どのくらいなんでしょうね
すず測ったらいいじゃないですか
コツ太測る
すずわたし、いまだに焙煎はタイマー見ないと駄目です。ドリップは体が覚えたので要らなくなりましたけど、煎るほうはまだ、手が先に動くので
店長三回焦がしたからな
すず三回で済んだんです
すずは平然と言った。コツ太は笑った。
すずだから、測るところから始めていいと思いますよ。何分で手が動くのか
平台のほうで、本を並べていた女性が顔を上げた。ハルさんという。店長の奥さんで、新刊のほうを見ている人だ。
ハルタイマー貸そうか。うちの台所のでよければ
コツ太いえ、家にあります。たぶん
ハルたぶんって
コツ太卵をゆでるとき以外、使ってないので
ハルじゃあ卵と同じ扱いにすればいいのよ。三分は三分でしょ
すずハルさん、その言い方ずるいです
ハルずるくないわよ。ゆで卵、待てるじゃない
コツ太は言い返そうとして、言い返せなかった。三分は待てる。待てるどころか、その三分のあいだ、他のことをしようとも思わない。
なぜ企画書だと待てないのか。
考えて、ひとつ思い当たった。卵は、三分経てば必ずゆで上がる。企画書は、二十五分座ったところで一行も出ないかもしれない。
ハル出ないかもしれないから、やらないの?
コツ太そうです
ハルじゃあ一生出ないわね
すずが小さく笑った。店長は何も言わずにカップを拭いている。
コツ太は、その日いちばん痛いことを言われた気がした。ただ、言われて腹は立たなかった。
第14章 二十五分だけ座る
木曜の午後、コツ太は台所用のタイマーを会社に持っていった。前の晩に、家の引き出しの奥から見つけてきたものだ。卵をゆでる以外に使ったことがない。
三時に、企画書のファイルを開いた。タイマーを二十五分に合わせた。
そのとき決めたのは、ひとつだけだった。この二十五分のあいだは、ほかを何も開かない。
四分で手が止まった。メールを見たくなった。見なかった。
七分で、コーヒーを取りに行きたくなった。行かなかった。
十一分。今日の店長の話を思い出した。四十四分目までは何も見えない。まだ十一分だ。
十四分あたりで、何かが変わった。
書きかけの一行に、続きが浮かんだ。売り場の組み替えの話だ。六年ぶんの数字が頭に入っているから、根拠はいくらでも出てくる。出てくるのに、いままで一度も書けなかった。
タイマーが鳴ったとき、画面には十七行あった。
コツ太はタイマーを止めて、しばらく画面を見ていた。
十七行。二十五分で十七行。この六か月で、この企画書に書けた行数はゼロだった。
金曜も、同じ時間に二十五分やった。今度は九分で入った。
ただ、そのあとが続かなかった。
二十五分が終わって、コツ太はもう一度タイマーを回そうとした。回せなかった。頭が疲れていた。二十五分で、こんなに疲れるとは思わなかった。
前は、八時間ずっと仕事をしていた。疲れていなかったわけではないが、こういう疲れ方ではなかった。
散らばっているほうが、楽だったのだと気づいた。
十七行書くのと、十七件片づけるのとでは、使うところが違う。十七件のほうは、手が覚えている。十七行のほうは、覚えていない。だから疲れる。
コツ太はタイマーを鞄にしまった。
来週も持ってこよう、と思った。
第15章 エピローグ
水曜の夜、コツ太はまた路地に折れた。
引き戸を開けると、すずがカウンターから顔を上げた。
すずあ、来た。どうでした
コツ太23件のままです
すず減ってないじゃないですか
コツ太減らないんです。それが分かりました
すずは、よく分からない、という顔をした。
奥から店長が出てきた。前掛けで手を拭いている。
店長梯子は伸びたままかね
コツ太伸びたままです。ただ、どこを上るかは、上司に決めてもらうことにしました
店長は少し笑った。
店長それは本には書いとらんな
コツ太書いてありませんでした
店長あの人は、自分で決められる人だからね
コツ太はコーヒーを頼んで、椅子に座った。
コツ太ひとつ聞いていいですか
店長うん
コツ太あの本、結局、僕には効いたんでしょうか
店長は湯を注ぎながら答えた。
店長効いたんだろう。ただし、書いてあるとおりには効いていない
コツ太はい
店長本の言うとおりにやったのは、閉じたリストのほうだ。あれは効かなかった
コツ太効きませんでした
店長効いたのは、二十五分座ったほうだろう
コツ太なんで分かるんですか
店長顔が違う。先週来たときは、追われている顔だった
コツ太はカップを持ったまま、自分の顔に触れてみた。分からなかった。
店長二十五分は、誰の許可も要らんからね。上司も課も関係ない。あんたが座るかどうかだけだ
コツ太たしかに、それだけです
店長本に書いてあることのうち、権限の要らないものだけが、あんたに効いた。それだけの話でね
コツ太はい
店長本というのは、たいていそうだ。書いた人と読む人は、別の場所に立っている。同じ場所に立っている人が書いた本なら、そのまま効く。ただ、そういう本はあんまり面白くないね
平台のほうから、ハルさんの声がした。
ハルその言い方、ずるいわよ
店長ずるいか
ハルずるい。効かなかったのも本のおかげ、みたいに聞こえるもの
コツ太は笑った。
コツ太でも、たしかに、効かないところが分かったのは収穫でした
ハルそこがいちばん高い買い物なのよ
ハルさんは並べる手を止めずに言った。
ハル1,760円で、自分に権限が無いって分かったんだから。安いものよ
すずがコーヒーを持ってきた。
すず今日のは深煎りです
コツ太この前もそう言ってませんでした?
すず言いました。あのとき飲んだじゃないですか
外で風が鳴った。冬が近い匂いがしていた。

あとがき

時間術の本を何冊読んだか、数えたことがある。十冊まで数えてやめた。全部やって、全部戻った。この本は、その理由を説明しにきた本だった。

効率を上げるほど、片づけるものが増える

私はずっと、自分の処理が遅いから終わらないのだと思っていた。逆だった。速くなると、頼まれる量が増える。

著者はそれを、上るほど伸びる梯子にたとえている。急いでいる感じはするのに、てっぺんには永久に着かない。著者自身、受信箱をゼロにしたら来るメールが増えたそうだ。

What's needed instead in such situations, I gradually came to understand, is a kind of anti-skill: not the counterproductive strategy of trying to make yourself more efficient, but rather a willingness to resist such urges.

── Oliver Burkeman, Four Thousand Weeks

拙訳:そういう場面で必要になるのは、その逆の技術だった。自分を効率よくしようとするのではなく、その衝動に抗おうとする意思のほうだ。

反・技術、という言い方が効いた。効率を上げるのは技術だ。上げないでいるのは、技術ではなく意思だ。私が六年やってきたのは前者だけだった。

私の失敗:落とす仕事を、痛くないほうから選んだ

本には「何に失敗するかを先に決めろ」と書いてある。私は決めた。決めたのは、誰にも頼まれていない仕事のほうだった。落としても誰も困らないからだ。痛いのは頼まれている仕事のほうで、そちらを落とすかどうかは、私が決めていい話ではなかった。

著者は、何を書くかも、いつ書くかも自分で決められる人だ。抱える件数を十件で打ち止めにして、十一件目を待たせられる。待たせても文句を言う人がいない。会社員の十一件目は、上司が持ってくる。 そのまま実行すれば「有限を受け入れた」ではなく「勝手にサボった」になる。

私が見つけた抜け道は、断ることではなく量を見せることだった。抱えている件数を紙に書いて渡す。今週やれるのはこの3件です、と言う。順番は向こうに決めてもらう。断るには権限が要るが、見せるだけなら要らない。

一度も「無理です」と言わなかったから、上司は私を全部できる人だと思っていた。それは上司が勝手にそう思ったのではなく、私が六年かけて作った印象だった。

私の意見|この本は、会社員を見捨てていない

結論から書く。この本は会社員を見捨てていない。 読み終えるまで私は「自分で予定を決められる人向け」だと思っていたが、十二章で引っくり返った。

著者はそこで、時間は電話網のようなものだと書く。持っている量ではなく、他人と噛み合っているかどうかで価値が決まる、と。

  • ソ連は一九二九年、工場を年中動かすため労働者を五色に分け、休みをずらした。友人と休みが合わなくなり、社会生活が壊れて、十年ほどで廃止された
  • スウェーデンの研究では、休暇で抗うつ薬の使用が減るだけでなく、同時に休んでいる人が多いほど減り方が大きかった。働いていない年金生活者まで幸福度が上がっている
  • 世界中を旅する「デジタル・ノマド」の最大の問題は、自由ではなく孤独だと書いてある

つまり、自分で時間を決められないことは、必ずしも損ではない。 会社員が持っているもの ── 同じ曜日に休む、同じ時間に集まる ── を、著者はむしろ手放してしまった側だ。

そう読めたとき、この本は急に自分の本になった。買ってよかったと思っている。

ただし、具体的な手順やアプリの使い方を求めて買うと落胆する。 そういう本ではない。

この本

  • 原題:Four Thousand Weeks(2021)
  • 邦題:『限りある時間の使い方』(2022)

こんな人に読んでほしい/見送っていい人

おすすめ度 ★★★★☆

こんな人に読んでほしい:片づけても片づけても翌朝には元に戻っている人/急ぎの小さい仕事ばかり終わって大事なほうが何か月も動かない人/「もっと効率よくやれば終わる」と何年も思い続けている人。時間術を何冊も試して戻ってきた人にも効く。

見送っていい人:具体的な手順やツールの使い方を求めている人。

診断が正確で、身も蓋もないところが良い本だ。

About ME
神保 文吾(じんぼ ぶんご)
神保 文吾(じんぼ ぶんご)
ブログ・コツ活 書評担当
ブログ・コツ活で書評を担当している、神保文吾(じんぼ ぶんご)です。ペンネームですが、書いているのは生身の一人の人間です。学生時代は神保町の古書店でアルバイトをし、毎日本を読む/聞く習慣だけは手放さずにきました。一冊で人生が変わることはありません。けれど読み続けると、十日後、百日後にはなぜか行動が少し変わっている——文字が静かに人を動かす手応えを、何度も味わってきました。流行に踊らされず、盲信もせず、それでも頭の片隅に置きたい一冊を手渡したい。それがコツ活を続ける理由です。
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