オープニング
コツ活 第四話 GIVE & TAKE
第一章 十七件の頼まれごと
月曜の夜だった。
コツ太は入社して6年目になる。日用品を作って、全国の営業所を通して売る会社で、営業のうしろを支える仕事をしている。
九時前に、コツ太はその日のメモを見返した。頼まれごとが17件あった。
営業所の資料の直し。後輩の企画書の相談。隣の課のデータの抽出。会議室の予約の付け替え。新人が使う手順書の書き足し。どれも小さい。ひとつ十分から三十分くらいだ。
自分の企画書は0行だった。
来月の販売会議に出す案を、先週から書こうとしている。まだ一文字も書いていない。書こうとするたびに、誰かが席の横に立つ。
後輩コツ太くん、ちょっといい
いいですよ、と答える。実際、たいていは十分で済む。十分だから断る理由がない。
そうやって17件になった。
コツ太はメモを見返した。営業所の資料の直しが四件。後輩の企画書の相談。隣の課のデータ抽出が三件。会議室の予約の付け替え。新人が使う手順書の書き足しが二件。あとは、名前も書いていない細かいものだ。
書き出してみて、妙なことに気づいた。十七件のうち、締切があるのは二件だけだった。
残りは全部「手が空いたときでいいので」だった。
手が空いたとき、という言い方を、コツ太は六年間まともに疑ったことがなかった。頼むほうに悪気は無い。急がないと言っているだけだ。
ただ、急がないものが十五件あると、急ぐものと同じだけ場所を取る。頭の中に、十五件ぶんの棚がいる。
コツ太は自分の企画書のファイルを開いた。ファイル名は「販売会議_案_v1」。作った日付は先月の十二日だった。
中身は、見出しが三つあるだけだった。
ひとつずつは小さい。合計すると、その日は自分の仕事に一度も触れていない。
コツ太は自分のメモを見た。頼まれごとの横に、済、済、済、と並んでいる。全部やっている。誰も待たせていない。
それでも、月曜が終わって、自分の欄は空だった。
第二章 灯りのある路地
その日は、まっすぐ帰る気にならなかった。
駅までの道を途中で外れて、細い路地に折れた。何度か来ている道だ。奥にひとつだけ灯りがある。ガラス越しの明かりが、歩道まで届いていた。
夕方に開いて、夜まで開けている店だ。引き戸を開けると、紙と、コーヒーの匂いがした。入ってすぐの平台に新刊が積んである。その先に喫茶の席が三つ四つ。いちばん奥は天井までの棚だ。
コツ太は席のひとつに座った。
第三章 断れない人の顔
すずいらっしゃいませ
カウンターの奥から、若い店員が顔を出した。すず、という名札をつけている。何度か顔を合わせているので、コツ太もいまさら名乗らない。
コツ太コーヒーください
すずはい。今日は深煎りです。ペーパーでいいですか
コツ太ほかにあるんですか
すずネルもエスプレッソもできますけど、深煎りはペーパーが素直なので
すずは豆を挽きはじめた。音がして、話さなくていい時間ができた。
湯を落とす前に、すずは手を止めた。粉に少しだけ湯をかけて、そのまま動かない。コツ太は待たされているのかと思ったが、すずの目は真剣だった。三十秒ほどして、また注ぎはじめた。
コーヒーが出てきた。ひとくち飲んでから、コツ太は口を開いた。
コツ太自分の仕事が、一つも進まないんですよね
すず忙しいんですか
コツ太忙しくはあるんですけど、全部、人の仕事なんです
すずは布巾を止めた。カウンターの布巾は、いつも三つに畳んである。
すず断れないタイプですか
コツ太そうですね
すずわたしもです
すずは、あっさりそう言った。
すずバイト先で、シフト代わってくださいって言われると断れなくて。この店じゃないですよ。前の店です
コツ太どうなりました
すず代わるのが当たり前になりました
コツ太は笑いかけて、途中でやめた。笑うところではなかった。
第四章 梯子の上にも下にもいる
奥の作業台のほうから音がして、年配の男が出てきた。前掛けで手を拭いている。すずが店長と呼んでいる人だ。
店長17件と言ったかね
コツ太聞こえてました?
店長聞こえた
店長はカウンターの内側に入って、湯を沸かしはじめた。
店長その17件、頼んだのは何人だね
コツ太は数えた。
コツ太六人か、七人です
店長同じ顔ぶれか
コツ太同じです
店長そうだろうな
すずわたしもです
コツ太は顔を上げた。
すず開店前の準備、気づくと全部やってるんですよ。ハルさんが平台やって、店長が煎ってて、じゃあ床とカップはわたしかって
すずは指を折って数えるような手つきをした。
すず頼まれてはいないんです。ただ、いつのまにか
店長は湯の様子を見ながら言った。
店長頼む側からすると、あんたに頼むのがいちばん早い。断られないと分かっているからだ
コツ太はカップを両手で持った。責められている気はしなかった。ただ、そのとおりだった。
コツ太じゃあ、断ったほうがいいってことですか
店長そうは言っとらん
店長は奥の棚のほうへ行った。少し探して、一冊を持って戻ってきた。厚い本だった。
店長これだ
コツ太は表紙を見た。ギブ・アンド・テイク、とある。
店長与える人が成功する、という本だ
コツ太じゃあ、僕は合ってるってことですか
店長合っている。半分はね
店長は本をカウンターに置いた。
店長この本の面白いところは、そこじゃない。与える人は、成功の梯子のいちばん上に多い。そして、いちばん下にも多いと書いてある
コツ太上と下
店長両方だ。真ん中がいちばん少ない
コツ太は本を見た。
コツ太その差は、何なんですか
店長才能じゃないそうだ。やり方と、選び方だと書いてある
第五章 五分間の親切という言葉
すずが手を止めた。
すずあの、ギバーって何ですか
店長英語だ。与える人、という意味でね。この本は人を三つに分けている。与える人、奪う人、釣り合いを取る人だ
すず釣り合いを取る人
店長もらったら返す、返したらもらう。世の中の大半はこれだよ
すずはうなずいた。
店長上に行く人のやり方も書いてある。あとは読めば分かる。私が言わなくていい
店長は本をコツ太のほうへ押した。
第六章 選べる人の本
コツ太使えそうです
コツ太がそう言うと、店長は少し黙った。
店長使えるところと、使えないところがある。使えないほうを先に言っておこう
コツ太はい
店長この本に出てくる、上に行った人たちを思い浮かべてごらん
コツ太まだ読んでません
店長読んだら数えるといい。投資家、起業家、コンサルタント、営業。その人たちに共通しているのが何かをね
コツ太は、その意味を掴みかねた。
店長与えること自体は間違っていない。ただ、この本の書き方は選べる人向けでね。そこは自分で埋めるしかない
第七章 ありがとうって言われてるの
平台のほうで、本を並べていた女性が顔を上げた。ハルさんという。店長の奥さんで、新刊のほうを見ている人だ。
ハルその17件、ありがとうって言われてる?
コツ太言われてます。たぶん
ハルたぶん?
コツ太は思い返した。ありがとう、は言われている。ただ、思い出せるのは一件か二件だった。
コツ太最初のころは言われてた気がします
ハルいまは?
コツ太いまは、済みましたって言うと、うん、って
ハルさんは並べる手を止めずに言った。
ハルそれ、当たり前になってるのよ
コツ太はい
ハルべつに悪い人たちじゃないと思うわよ。当たり前になると、人はお礼を言わなくなるだけ
店長ハル。話の途中だ
ハル途中でも言っときますよ
すずが小さく笑った。
コツ太は本の値札を見た。1,980円。
すず買います
すずがレジを打った。
すずまたコーヒー飲みに来てくださいね
第八章 五分では終わらない
その夜、コツ太は帰りの電車で本を開いた。
前半は、与える人が成功する話だった。人脈の作り方、人の見抜き方、伝え方。読んでいて気持ちがよかった。自分のやってきたことが、間違いではないと書いてある。
五分間の親切、という言い方のところで、コツ太は手を止めた。
誰に対しても、五分以内で終わることなら喜んでやる。それを積む。頼まれてから考えるのではなく、先に線を引いておく。著者はそれを、人脈を広げるいちばん確実なやり方として書いていた。
コツ太は自分の17件を思った。十分から三十分。五分で終わるものは、たぶん一つもない。
それでも、線を引くという考え方が新しかった。いままでは、頼まれるたびに、これは受けるべきかどうかを一件ずつ迷っていた。迷う時間そのものが疲れの元だった気がする。
やってみよう、と思った。
火曜、コツ太は五分の線を引いた。五分で終わりそうなものは即答で引き受ける。それ以外は、いったん持ち帰る。
朝いちで、隣の課からデータの抽出を頼まれた。条件を三つ聞いて、抽出して、送る。五分のつもりが、二十五分かかった。
条件が三つでは足りなかったからだ。どの期間か。どの店舗か。集計の単位は。聞き直しているうちに、相手の欲しいものが変わっていった。
昼前に、後輩が企画書を持ってきた。
後輩ちょっとだけ見てもらえますか
五分だな、と思って受け取った。読んだら、前提のところで詰まっていた。そこを直さないと、あとの三ページが全部ずれる。
説明に四十分かかった。
夕方までに、五分で終わったものはひとつもなかった。
その日、コツ太は気づいた。社内の頼まれごとが五分で終わらないのは、前提の共有に時間がかかるからだ。本に出てくる五分間の親切は、紹介したり、感想を返したりする話だった。あれは相手の状況を知らなくてもできる。社内の仕事は、状況を知らないと手が出せない。
第九章 便利屋になった週
それでも、コツ太はやめなかった。
五分間の親切は、いい考えに思えた。うまくいかないのは自分のやり方が下手だからだと思った。
水曜、即答した。木曜も即答した。
即答すると、頼むほうは楽になる。楽になると、また頼む。
金曜の夕方、コツ太はメモを数えた。
34件あった。
月曜が17件だった。倍になっている。
自分の企画書は、0行のままだった。
後輩先輩
後輩が横に立った。
コツ太これ、来週でいいんですけど
コツ太は紙を受け取った。
後輩あと、先輩って便利ですよね
悪気は無かった。褒めるつもりで言ったのが分かる言い方だった。
コツ太便利
後輩はい。誰に聞いてもコツ太さんに聞けって言われるので
後輩は笑って、自分の席に戻った。
コツ太はしばらく紙を持ったまま座っていた。
便利。悪い言葉ではない。ただ、六年働いて、その言葉が返ってきた。
第10章 沈むギバー
その夜、コツ太は本を開き直した。
前半で止めていた。後半に入って、すぐに手が止まった。
そこには、与える人が成功の梯子のいちばん下にいる場合の話が書いてあった。
自分を勘定に入れない与え方をする人がいる、と著者は書いていた。相手のことばかり考えて、自分の必要を数に入れない。それは病的な利他と呼ばれるもので、人を助けようとして自分を壊す。
コツ太は自分の34件を見た。
そこで、店長が言っていたことを思い出した。読んだら数えるといい、と。
前半に戻って、上に行った人たちを数えてみた。投資家。起業家。コンサルタント。営業。共通しているものは、すぐに分かった。
誰に与えるかを、自分で選んでいる。
コツ太の17件は、席の近い人と、上から来る。選んだ覚えはない。
もうひとつあった。この本の人たちは、与えた相手が覚えていてくれる。人脈に残るからだ。コツ太が後輩の企画書を直したことは、どこにも残らない。誰も見ていない。
そのあとに、上に行く人との差が書いてあった。差は与える量ではない。与え方と、相手の選び方だ。上に行く人は、自分の分も勘定に入れている。
そしてもうひとつ、コツ太が探していた答えがあった。
与えることを毎日ちょっとずつに散らすより、週に一度、まとめてやるほうが効く。著者はそう書いていた。同じ時間を使っても、散らすと効かない。まとめると効く。
散らす。まさに散らしていた。五分間の親切というのは、散らす方法だった。
もう一度読み直して、コツ太は気づいた。あの言葉は断る技術として書かれている。五分で終わるものはやる。それ以外は、やらないか、別のやり方で受ける。自分は前半しか読んでいなかった。五分で終わるものはやる、のところだけを持ち帰って、それ以外を全部足していた。
第11章 誰に渡していたか
日曜の午後、コツ太は本の続きを読んだ。
沈む人と上に行く人の差は、与え方と相手の選び方だ、と書いてあった。与え方のほうは分かった。相手の選び方が分からない。
読み進めると、そこが書いてあった。
人には二つの軸がある、と著者は言う。ひとつは、与えるか奪うか。もうひとつは、愛想がいいか悪いか。この二つは、別のものだ。
コツ太は本から目を上げた。同じだと思っていた。感じのいい人は与える人で、無愛想な人は奪う人だと思っていた。
違うと書いてある。四通りある。
愛想がよくて与える人。無愛想で奪う人。ここまでは分かりやすい。
問題は残りの二つだ。
無愛想なギバー。口は硬い。要求も厳しい。だが、本当に助ける。
愛想のいいテイカー。感じがいい。よく笑う。だが取っていくだけだ。著者はこれを、偽物と呼んでいた。
コツ太は自分の34件を思い浮かべた。
誰から来たか、順に数えてみた。上から七件が、同じ人だった。
隣の課の先輩だ。感じのいい人で、頼み方も丁寧で、いつも「助かります」と言う。断ったことは一度もない。
その人から、何かをもらったことがあるだろうか。
思い出そうとして、思い出せなかった。
逆に、一度も頼んでこない人がいる。営業所の主任だ。電話の口が悪くて、返事も短い。去年、コツ太が数字を間違えたとき、真っ先に電話をかけてきて怒った人だ。
ただ、その人は間違いの直し方まで教えてくれた。ほかの誰も、そこまではしなかった。
コツ太は本に線を引いた。
第12章 三日で分かること
月曜、コツ太は数えてみることにした。
紙を一枚出して、二列に分けた。左に「頼まれたこと」、右に「その人からもらったこと」。三日ぶんだけ書く。
火曜の夜、紙を見た。
左は十四行あった。右は三行だった。
三行のうち二行は、同じ人からだった。営業所の主任だ。頼んでこないほうの人が、二回くれている。
左の十四行のうち、七行が隣の課の先輩だった。
コツ太は右の欄を見た。先輩の名前は、一度も無い。
紙を見ていて、コツ太は妙な気持ちになった。責める気持ちではなかった。もっと単純に、六年間、一度も数えていなかったことに驚いていた。
数えるまでは、全員が同じに見えていた。頼んでくる人は、全員「困っている人」だった。
数えたら、分かれた。
分かれたあとで、コツ太は困った。
分かったからといって、先輩の頼みを断れるわけではない。同じ課ではないが、あちらが上だ。それに、感じの悪い人でもない。悪意で取っていく人ではなくて、たぶん、こちらが便利すぎるだけだ。
本には、相手によって出し方を変えろと書いてある。取る一方の相手には、こちらも釣り合わせる側に回れ、と。
コツ太はその一行を三度読んだ。
読んで、無理だと思った。相手によって態度を変えるのは、自分にはできない。やろうとすれば顔に出る。顔に出れば、あの人は気づく。
紙をしまいながら、コツ太は別のことを考えた。
相手を選べないなら、場所のほうを選べばいい。誰に渡すかは決められないが、いつ渡すかなら決められるかもしれない。
水曜の夜、コツ太は路地に折れて、その考えを口に出してみた。
平台のほうで、本を並べていた女性が顔を上げた。ハルさんという。店長の奥さんで、新刊のほうを見ている人だ。
ハル時間を決めるの? それ、断ってるのと同じよ
コツ太同じですか
ハル同じ。ただ、言い方が違うだけ
ハルさんは平台の本を三冊持ち上げて、下の段に移した。手は止まらない。
ハルでもね、その違いがいちばん大事なの。人は中身より言い方で怒るから
すずハルさん、それ身も蓋もないです
ハル事実だもの
コツ太は、その言い方をしばらく考えていた。断るのと同じことをして、断ったと思われない方法がある。それは、ずるいのだろうか。
ずるくても、六年間できなかったことができるなら、やってみる価値はある気がした。
第13章 木曜の四時から
月曜の朝、コツ太は課長の席へ行った。
課長相談を受ける枠を作りたいんですが
課長は顔を上げた。
課長枠?
コツ太木曜の四時から、一時間半。困っている人はそこに来てもらう形にしたいです
課長急にどうしたの
コツ太は正直に答えた。頼まれごとが34件あること。全部やっていること。自分の企画書が0行のこと。断れないので、代わりに時間を決めたいこと。
課長は少し考えた。
課長それさ、断ってるように見えない?
コツ太見えると思います
課長じゃあ、こう言えば
課長は紙に書いた。
課長相談日、と書いておくといい。断りますじゃなくて、ここで受けますって書くんだ
コツ太は紙を見た。同じことを言っているのに、印象が逆になっていた。
課長あと、緊急のは今までどおり受けなよ。全部を枠に入れると、たぶん回らない
コツ太はい
課長それと
課長は付け足した。
課長君が全部やってくれてたのは、僕も知ってる。知ってて、頼みやすいから頼んでた。悪かったよ
第14章 断らずにまとめた
木曜の四時、会議室に5人来た。
隣の課のデータの人。後輩。新人。営業所からの電話が一件。あとひとりは、話を聞いてほしいだけの人だった。
一人ずつ順番に見た。
驚いたのは、速く終わったことだった。
同じ相談でも、割り込みで受けるのと、座って受けるのは別物だった。割り込みだと、自分の頭を切り替えるのに時間がかかる。まとめて受けると、一件目で切り替えたあとは、そのまま五件通せる。
一時間半で5人が片づいた。ばらばらに受けていたら、たぶん半日かかっていた。
金曜、コツ太は企画書を書いた。
朝から夕方まで、誰も横に立たなかった。木曜に来た5人は、木曜で済んでいるからだ。
一日で、企画書は八割まで書けた。0行だったものが、である。
頼まれごとの数は、減っていない。数えたら34件のままだった。
減ったのは、割り込みの回数だった。
第15章 一人でやらなくていい
木曜の四時。二週目の相談日には、三人来た。
一人目は後輩。二人目は隣の課の若い人。三人目は、去年入った新人だった。
新人の相談は、データの抽出のやり方だった。コツ太が三分で片づけられる。ただ、その日は違うことをした。
コツ太これ、先週やってたよね
後輩あ、やりました
コツ太教えてあげて
後輩は少し戸惑って、それから新人の隣に座った。二人で画面を見ている。
コツ太は自分の席に戻って、企画書を開いた。
十五分して振り返ると、まだ二人で話していた。終わったらしく、新人が礼を言って戻っていった。
後輩なんか、先輩みたいなことしましたね
コツ太どうだった
後輩説明するの、思ったより難しかったです。自分が分かってないとこ、分かりました
コツ太は、それが本に書いてあったことだと気づいた。
自分ひとりが与える人でいると、自分だけが減る。周りも与えるようになれば、減り方が変わる。著者は、集団の規範のほうを動かせと書いていた。
一人で三十四件受けるのと、三人で三十四件受けるのとでは、話がまるで違う。
第16章 数えた紙を見せた
金曜の夕方、コツ太は二列に分けた紙を持って隣の課へ行った。頼まれごとの七件を出している先輩の席だ。
言いに行くのではない。見せに行くだけだと決めていた。
コツ太先輩、これ見てもらっていいですか
先輩なに
コツ太僕がこの三日で受けた頼まれごとです
先輩は紙を見た。左に十四行。右に三行。
先輩多いね
コツ太はい。それで、木曜の四時に相談の時間を作りました。急ぎでなければ、そこでまとめて受けます
先輩あー、聞いた聞いた。あれ、君が始めたの
コツ太はい
先輩は紙をもう一度見た。目が、左の列を上から下へ動いている。自分の名前が七回あるのが見えているはずだった。
先輩悪かったね
コツ太は、その言葉を予想していなかった。
先輩いや、便利だからさ。つい
コツ太助かってます、って言ってもらえてたので
先輩助かってたよ。ほんとに
先輩は少し笑って、それから言った。
先輩木曜に行くわ
コツ太は席に戻った。断ってはいない。何ひとつ断っていない。
変わったのは、受ける場所を一つに決めたことだけだった。
第17章 効いたかどうかが見えない
土曜の朝、コツ太は本の残りを読んだ。
燃え尽きる人と、燃え続ける人の話が出てきた。
意外なことが書いてある。燃え尽きかけた教師が、与える量を減らさずに、むしろ増やしたという話だ。週に十時間、別の活動を足した。それで回復した。
コツ太は読み返した。減らして回復したのではない。増やして回復している。
なぜかが、そのあとに書いてあった。
大学の電話勧誘の職場で、著者が調べたことだ。与える性質の人のほうが、奪う性質の人より成績が悪かった。人の役に立ちたくて入ってきた人が、いちばん取れない。
理由は、見えないことだった。集めた金がどこへ行くのか、誰の役に立ったのか、誰も教えてくれない。
そこで著者は、その金で学校に通えた学生の手紙を読ませた。五分だけ。
一週間で、成績が逆転した。
コツ太は自分の三十四件を思い浮かべた。
水曜、営業所の資料を直した。あの資料がどう使われたか、知らない。後輩の企画書を直した。あれが通ったのかどうかも、聞いていない。
六年ぶん、全部そうだった。渡したところで終わっている。
コツ太は紙を出して、一行だけ書いた。渡したものが、そのあとどうなったかを聞く。
それだけだ。断るでもなく、減らすでもない。聞くだけ。
月曜、営業所に電話をかけた。
コツ太先週の資料、使えましたか
営業所使ったよ。あれ、助かった。あの表があったから、店に説明できた
コツ太そうですか
営業所なんで急に
コツ太いえ。知らなかったので
電話を切って、コツ太はしばらく座っていた。
三十四件が三十四件のまま、重さだけが変わっていた。
第18章 二か月後の紙
二か月が過ぎた。十二月の火曜、コツ太はまた二列の紙を書いた。
三日ぶんの記録だ。左に頼まれたこと。右に、その人からもらったこと。
左は九行だった。三日で九行。夏は十四行だった。
右は五行あった。三行が五行になっている。
数が減ったのは、木曜の四時にまとめたからだ。増えたのは、聞くようにしたからだった。
コツ太は、右の五行を上から読んだ。営業所の主任。後輩。新人。隣の課の若い人。それから、隣の課の先輩の名前が、一度だけあった。
先輩が、コツ太の企画書に目を通してくれていた。売り場の組み替えの案だ。木曜の相談日に、逆に相談する形になった。
そのとき言われたことが、一行だけ書いてある。
先輩北関東の数字だけ、去年と比べたほうがいい
その一行で、企画は通った。来月の販売会議で、五分もらうことになっている。
コツ太は紙を引き出しにしまった。
三十四件は、いまも三十件くらいある。減ったのは四件だけだ。
第19章 エピローグ
金曜の夜、コツ太はまた路地に折れた。
引き戸を開けると、すずがカウンターから顔を上げた。
すずあ、来た。どうでした
コツ太断らずに済みました
すず断らないんですか
コツ太断らないで、まとめました
すずは、よく分からない、という顔をした。
奥から店長が出てきた。前掛けで手を拭いている。
奥の作業台では、店長が段ボールを開けていた。買い取った古本が入っている。一冊ずつ出しては、表紙を開いて、後ろを見て、脇へ積んでいく。一冊三秒。手が止まらない。
店長梯子の下から上がったかね
コツ太上がってはいないです。沈むのが止まっただけで
店長それで十分だろう
店長は湯を沸かしはじめた。
コツ太ひとつ、まだ分からないことがあります
店長なにかね
コツ太あの本、与える人が上に行くって書いてあるじゃないですか。でも僕、上には行ってないんです
店長三十四件は減ったかね
コツ太四件だけです
店長じゃあ、何が変わったね
コツ太は少し考えた。
コツ太誰に渡しているかが、分かるようになりました
店長は湯の様子を見ている。
コツ太あと、渡したものがどうなったかも、聞くようになりました
店長それだ
店長は湯を注いだ。
店長本には、上に行く人の話が書いてある。ただ、上に行くのは結果でね。先に来るのは、いま言ったほうだ
すずがカップを運んできた。
すず今日は浅煎りです
コツ太この前は深煎りって言ってませんでした?
すず日によって変わるんです。毎日おなじだと、飽きるので
平台のほうから、ハルさんの声がした。
ハルその人、ずいぶん通うようになったわね
すず常連さんですよ、もう
コツ太は、常連という言葉を口の中で転がした。悪くなかった。
外は冷えていた。コーヒーは、まだ熱かった。
店長は湯を注ぎながら言った。
店長あの本はね、与えるのをやめろとは一言も書いていない。与え方を変えろと書いてある。あんたは変えたわけだ
コツ太五分間の親切は、使えませんでした
すずそうか
店長社内だと、五分で終わらないんです。前提を共有するのに時間がかかるので
店長は少し笑った。
店長それは書いてないな
コツ太書いてありませんでした
平台のほうから、ハルさんの声がした。
コツ太ありがとうは、言われるようになった?
コツ太は考えた。
コツ太木曜に来た人は、帰りに言います
すずそう
コツ太割り込みのときは、言われなかったんです。たぶん、向こうも急いでたので
ハル時間を取ると、お礼が戻ってくるのよ
ハルさんは並べる手を止めずに言った。
ハル急いでる人はお礼を言う暇がないだけ。あなたが悪いわけでも、向こうが悪いわけでもないの
すずがコーヒーを持ってきた。
すず今日のは中煎りです
外で風が鳴った。冬の匂いがしていた。