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男はなぜバーベキューに熱狂するのか【『人間は料理をする』2/6】

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なぜ男は火の魅力に抗えないのか

男はなぜ、バーベキューの炎の前に立つと、普段とは別の顔を見せるのだろうか。台所での料理には見向きもしない男性が、炭に火をおこし、肉をのせた瞬間に目を輝かせる。この不思議な現象の背後には、人類の進化と文化が深く絡み合っている。『人間は料理をする』著者でジャーナリスト・作家のマイケル・ポーランは、この「火と男」の関係を人類学的・文化的視点から掘り下げ、現代人が失いつつある「直接性」の本質を問い直している。

丸ごと一頭の豚を焼く「ホールホッグBBQ」の哲学

マイケル・ポーランは、火による料理の奥義を探るため、ノースカロライナ州アイデンで活躍するピットマスター、エドワード・ミッチェル氏のもとに弟子入りしたことを同書で詳しく述べている。そこで彼が体験したのは、丸一頭の豚を24時間かけて薪火でじっくりと焼き上げる「ホールホッグBBQ」という、まさに古来からの調理法であった。この方法では、熱源としての火を安定させる技術はもちろん、薪の種類を選び、煙の香りを肉にまとわせる繊細な技が求められる。単に火にかけるのではなく、肉の内部まで熱を通し、同時に乾燥させないよう、常に火と肉の状態に目を光らせ続ける集中力と忍耐力が必要とされるのだ。

このホールホッグBBQは、単なる調理を超えた哲学を持つ。それは現代の効率重視の料理とは対極にあり、時間を惜しまず、五感を研ぎ澄まし、自然の恵みに感謝しながら、食材と真摯に向き合うことを意味する。肉が焼ける香ばしい匂い、薪が燃える音、煙が立ち上る様子、その全てが調理の一部であり、その手間暇をかけること自体が、現代社会において失われがちな達成感や充足感をもたらす。同氏は、この根源的な料理の姿の中に、人間が火によって進化してきた歴史と、それに伴う喜びを見出そうとしたのである。

火が呼び覚ます男性的、英雄的な本能

人類の歴史を紐解けば、火は常に共同体の中心にあり、特に男性と深く結びついてきたことがわかる。火を発見し、操ることは、初期の人類にとって画期的な進歩であり、危険な野生から身を守り、食材を安全に、そして美味しく加工する手段となった。火を管理し、狩りで得た獲物を調理する役割は、男性に多く担われていたとされる。火を熾し、維持する技術は、家族や共同体を飢えから守る能力に直結し、それが男性の地位や尊敬を集める要因となったのだ。

火の持つ力強さ、予測不能な性質は、まさに挑戦であり、それを手なずける行為は英雄的なものとして捉えられてきた。火を操ることは、獲物を手に入れる狩猟と同じくらい、いやそれ以上に、共同体の存続に不可欠なスキルであった。火の周りに集まり、調理された肉を分かち合うことは、共同体の絆を深める儀式であり、男性はそこで自らの役割と価値を再確認した。同氏は、こうした人類学的な背景から、火を使った料理が男性の根源的な本能や、英雄的な側面を刺激し続ける理由を考察しているのだ。

南部文化に息づくバーベキューと共同体の精神

アメリカ南部におけるバーベキューは、単なる食事ではなく、地域社会の重要な文化的儀式として深く根付いている。ホールホッグBBQのような大掛かりな調理は、一人でできるものではない。家族や友人、隣人たちが協力し合い、豚を準備し、薪を運び、24時間体制で火を見守る。この共同作業の過程こそが、人々の絆を強め、一体感を育むのだ。

バーベキューは、誕生日や結婚式、地域の祭りといった特別なイベントの際に行われることが多い。長時間かけて調理された肉を囲んで、老若男女が集い、語らい、笑い、共に時間を過ごす。それは、共同体の歴史や伝統を受け継ぎ、次世代へと伝えていくための重要な機会でもある。同氏が体験した南部バーベキューは、食べ物を通じて人々が繋がり、助け合い、支え合う、人間本来の共同体のあり方を象徴するものであったと言える。現代社会において希薄になりがちな人間関係や、地域社会との繋がりを、バーベキューという原始的な行為が再構築する力を持っていることを、同著は示唆しているのだ。

失われた直接性を取り戻すために

現代の食卓は、工業化された食品、加工食品、手軽な調理法に満ちている。ボタン一つで電子レンジが温め、数分で食事が完成する。確かに便利ではあるが、その過程で私たちは、食材のルーツや、調理の根源的な喜びから遠ざかってしまったのかもしれない。食材がどのように生まれ、どのようにして皿に乗るのかという「直接性」や、時間をかけて何かを成し遂げる「達成感」は、日常から失われつつあるのだ。

しかし、火の前に立ち、自らの手で食材を調理する時、私たちはその失われた感覚を取り戻すことができる。薪が燃える匂い、炭の熱、肉が焼ける音、そして食材がゆっくりと変化していく様子を五感で感じる。この原始的な行為は、私たちを現代の喧騒から解放し、内なる満足感をもたらす。火を操り、時間をかけ、一つの料理を完成させるというシンプルな行為は、忘れ去られた本能を呼び覚まし、心の奥底から湧き上がる充足感を与えてくれるはずだ。

そうした視点を持つための補助線として、実際に火を使った料理に挑戦してみるのも良いだろう。「ロッジ キャストアイアン ダッチオーブン」を手に取ってみてはどうだろうか。油をきちんと鋳鉄製のダッチオーブンになじませる儀式を経て、火を囲み、食材と向き合い、自らの手で調理する体験は、現代生活で失われがちな「直接性」と「達成感」を取り戻し、心豊かな時間をもたらしてくれるはずだ。

Kの視点

本文が「男と火」を人類学的な本能として肯定的に描いたのに対し、原書はその関係性をもう一段複雑に見ている。ポーランは火を使う料理の気分を「heroic, masculine, theatrical, boastful, unironic, and faintly ridiculous(英雄的で、男性的で、演劇的で、自慢げで、アイロニー抜きで、そして何となく滑稽)」と形容している。つまり著者自身が、火の前で勇者を演じる男の姿に、ある種の自己パロディーを見ているのだ。崇高と滑稽が紙一重であるという留保が、記事では抜け落ちた。

フロイトの「放尿消火説」が原書に登場する点も見逃せない。ポーランはこの奇説を冗談半分に引いたうえで、「pit mastersの前で持ち出す気にはなれない」と笑い飛ばすが、実はこの一節は重要な役割を担っている。火を「征服」することに男が執着する心理の裏には、抑圧された衝動があるかもしれないという示唆を、ユーモアの衣をまとわせて忍び込ませているのだ。ポーランはそうした問いを宙吊りにしたまま先へ進む。

さらに原書は、ホールホッグBBQの「本物性」を礼賛しつつも、その足元を静かに崩している。スカイライト・インが調理する豚は、今や工場型畜産のコモディティ・ポークであり、ポーラン自身が「elaborate fetish of tradition」が「何か全く別のものの隠れ蓑になっていないか」と自問する。火と煙と時間という儀式が、産業的な暴力を視界から消す「バーベキューソース」として機能しているのではないか、と。男の本能を称える物語は、そうした不都合な問いを煙に巻く構造でもある、という読み方が成立する。 — K

『人間は料理をする』シリーズ(全6回)

なぜ現代人は料理しなくなったのか【『人間は料理をする』1/6】
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祖母の煮込み料理はなぜあんなに美味しかったのか【『人間は料理をする』3/6】
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パンを焼くことはなぜこれほど人を満足させるのか【『人間は料理をする』4/6】
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発酵とは何か——微生物が人間の食卓を作った【『人間は料理をする』5/6】
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料理することが人間を人間にする【『人間は料理をする』6/6】
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