バイク整備という「禅」の修行
修理工場の「観客」たち
70年代、ロバート・M・パーシグは名著『禅とオートバイ修理技術』の中で、ある修理工場の若者たちをこう描写した。 彼らはラジオをガンガン鳴らしながら、チンパンジーのようにふざけ合い、ピストンの異音を聞こうともせず「タペットだね」と適当な診断を下し、挙句の果てにはエンジンを台無しにした、と。
『手仕事の復権』の著者クロフォードは、このエピソードを現代によみがえらせる。 彼らの罪は「技術不足」ではない。彼らが「スペクテイター(観客)」だったことだ。 目の前の機械と自分との間に、個人的な関わり(Personal connection)を持とうとせず、ただマニュアル通りに、あるいは惰性で手を動かす。
この話を読んで、「なんて無責任な奴らだ」と他人事のように笑ったかもしれない。 だが、笑う前に少しだけ、胸に手を当てて考えてみてほしい。 我々が日々、オフィスでPC画面に向かい、右から左へとタスクを「処理」している時の目は、彼らと同じように虚ろではないと言い切れるだろうか?その「心ここにあらず」な態度は、まさに現代の我々が陥っている「現実離れ」した病そのものだ。
マザー・ファッカー・プロセス
休日の昼下がり、愛車の自転車や、あるいは古い家具を修理する時間は、至福のひととき……ではないことが多い。 特に、古いモノを相手にする場合、それは「忍耐の限界」を試される苦行となる。
著者はある日、古いホンダ・マグナV45の修理に挑み、固着したクランクケースカバーと格闘する。 叩いても、こじっても、潤滑油を差しても、カバーは微動だにしない。まるで物理法則そのものが自分を拒絶しているかのように。
ここで、著者が「マザー・ファッカー・プロセス(Motherfucker process)」と名付けた、ある種の通過儀礼が幕を開ける。まず、人は獣のように激怒する。あらゆる罵詈雑言を喚き散らし、レンチを壁に投げつけたくなる。 そして疲れ果て、絶望的な虚脱感の中でタバコを一服する(著者の場合は、近くのストーブでズボンに引火して我に返るというオチがついた)。
だが、この「敗北」こそが重要なのだ。 怒りが去った後の静寂の中で、ようやく「自分の思い通りにしよう」という傲慢なナルシシズムが消え去る。 自我を捨て、虚心坦懐に機械と向き合ったその時、指先に微妙な感覚が戻り、あれほど固かったカバーが「パカッ」と嘘のように外れるのだ。
メカニック・ハイ
機械整備とは、自分の思い通りにならない「他者(物理法則)」と向き合い、自分のエゴをへし折られる修行である。 そのプロセスを経た時、我々は「メカニック・ハイ」とも呼ぶべき没頭状態に入る。
錆びついたパーツを磨き、グリスを塗り、正しいトルクで締め付ける。 その作業中、我々は「自分」を忘れる。 著者はこれを、作家であり、哲学者でもあるアイリス・マードックの言葉を借りて「アン・セルフ(非自己)」の状態と呼ぶ。
自転車のブレーキを調整したり、緩んだ棚のネジを締め直したりしている時、あなたは単に修理をしているのではない。 世界と直接プラグインし、情報のノイズから解放された、静寂な時間を過ごしているのだ。 それはまさに、パーシグが50年前に説いた「禅」の境地そのものである。
今日のコツ:手を汚す時間を確保する
今週末は、窓の掃除でもいい、自転車のチェーンを洗うだけでもいい、靴を丁寧に磨くのでもいい。 自分の手を使って、物理的なモノの状態を「快復」させる作業に没頭してみよう。 指先の汚れは、あなたが確かにこの世界に存在し、世界に働きかけた証拠だ。 洗剤でその汚れを落とす時、心の中の「曖昧なモヤモヤ」も一緒に洗い流されていることに気づくだろう。
もちろん、明らかに元に戻せる自信がないものならば、分解するのは「ネジ一本」までにしておくのが賢明だ。 破壊と修理の違いは、紙一重なのだから。
