発酵とは何か——微生物が人間の食卓を作った【『人間は料理をする』5/6】
料理の主役は微生物かもしれない
もし料理の主役が人間ではなく、目に見えない微生物だとしたら、どう感じるだろうか。『人間は料理をする』著者でジャーナリスト・作家のマイケル・ポーランは、料理を四大元素「火、水、空気、土」に分類し、「土」の元素が担う「発酵」に焦点を当てている。同氏が定義する発酵とは、バクテリア、カビ、酵母といった微生物が主役となり、食材を新しい形へと変容させる生命の営みである。微生物たちは人間に代わって労働し、食材の栄養、風味、保存性を高めてきたのだ。
世界中の食文化を支える発酵の力
発酵は、人類の食文化の基盤を築いてきたと言える。世界各地に目を向ければ、微生物の働きなしには存在しえない多様な食品を見つけることができる。たとえば、牛乳をバクテリアが分解して作り出すチーズは、その風味と保存性で古くから人々に愛されてきた。数多くの種類が存在し、それぞれ異なる微生物の働きが独特の個性を生み出している。
ぶどうを酵母が糖分をアルコールに変えることで生まれるワインは、その土地の気候や微生物の作用が深く反映された飲み物である。ワインと同様に酵母の働きが不可欠なビールもまた、穀物の糖分が発酵を経て、複雑な味わいと香りを獲得する。
日本においては、大豆と麹菌が織りなす味噌や醤油、米から生まれる日本酒など、発酵食品が食生活の中心を占めてきた。これらの食品は、単に風味豊かなだけでなく、食材の保存性を高め、限られた食料を無駄なく利用する知恵の結晶でもある。漬物もまた、野菜を乳酸菌などの微生物が発酵させることで、独特の酸味と香りが生まれ、長期保存が可能となる食品だ。こうした発酵食品は、それぞれの地域の歴史や風土に根ざし、人々の暮らしを豊かにしてきたのである。
腸内マイクロバイオームと発酵食品
近年、科学の進歩によって、発酵食品が人間の健康に与える影響がより深く理解されるようになった。特に注目されているのが、人間の腸内に生息する膨大な数の微生物の生態系、いわゆる「腸内マイクロバイオーム」である。この腸内細菌のバランスは、消化吸収だけでなく、免疫機能、代謝、さらには精神状態(脳腸相関)にまで影響を及ぼすことが明らかになっている。
発酵食品は、生きた微生物やその代謝産物を含んでおり、これらが腸内環境を豊かにし、善玉菌の増殖を助けると考えられている。ヨーグルトやケフィアに含まれる乳酸菌、キムチやザワークラウトといった植物性発酵食品に豊富な微生物群は、腸の健康をサポートする。本書では、こうした発酵食品を食べることで、現代人が抱える様々な健康問題に対する解決策を見出す可能性が示唆されているのだ。
工業化が発酵から奪ったもの
現代の食品産業は、効率性、均一性、そして安全性を追求するあまり、発酵の本来の姿を大きく変容させてきた側面がある。工場で生産される多くの食品では、微生物の活動を完全にコントロールするか、あるいは完全に排除する「殺菌」が行われる。これにより、品質の安定性は向上するものの、発酵がもたらす複雑な風味の多様性や、生きている微生物が持つ健康効果が失われることがある。
工業的な食品生産において、微生物はしばしば「敵」と見なされ、排除の対象となる。しかし、同氏は、発酵というプロセスが、微生物との共生を通じて、より豊かで栄養価の高い食品を生み出す可能性を秘めていると指摘する。殺菌された環境下で育つ現代人は、かつて自然界に豊富に存在した多様な微生物との接点を失いつつあり、それが様々な健康問題の一因となっている可能性もあるのだ。
微生物との共生が豊かな未来を創る
発酵は、単なる食品加工技術ではない。それは、人間と微生物が互いに作用し合う、生命そのものの営みである。微生物たちは、土の中で、そして私たちの食卓で、絶えず働きかけ、食べ物を変化させ、私たちの身体を養ってくれる。『人間は料理をする』は、この見えない共同作業者たちの存在を私たちに気づかせ、彼らとの共生こそが、より健康的で豊かな食文化、ひいては人間の健康と文化の基盤であることを教えてくれる。
現代社会において、失われつつある微生物とのつながりを再認識し、発酵の知恵を日々の暮らしに取り戻すことは、私たち自身のウェルビーイングを高める上で非常に価値のあることだろう。その思考をさらに広げるための一冊として、東京農業大学の小泉名誉教授が著した、発酵の名著『最終結論「発酵食品」の奇跡』を手に取ってみてはどうだろうか。発酵の世界への理解をさらに深め、自宅で実践する知恵まで得られるはずだ。
Kの視点
本文が「工業化が発酵から奪ったもの」として論じる問題は、原書の発酵章(Part IV)においてより具体的な形で問われている。ポーランが師事したサンダー・エリックス・カッツ(Sandor Ellix Katz)は、ザワークラウトひとつを取っても市販品のほぼすべてが加熱殺菌されており、「発酵食品」と表示されながら生きた微生物を一切含まないと指摘する。この事実はラベルを見ただけでは判断できず、消費者は「発酵の概念」だけを買わされている、というのがポーランの率直な評価だ。記事本文が描く「失われた微生物とのつながり」は、じつはスーパーの棚の中にすでに埋め込まれている問題である。
腸内マイクロバイオームへの言及は本書執筆当時(2013年)の科学水準を反映しており、その後の研究によって「プロバイオティクスが腸内に定着するかどうか」は個人差が極めて大きいことが明らかになっている。発酵食品の摂取が腸内環境を「豊かにする」という記事本文の表現は、現時点では留保付きで読む必要がある。ポーラン自身は本書で健康効果の断言を意図的に避け、むしろ「失われた多様性」という生態学的な枠組みで発酵を語っている。この慎重さは、本文の構成では伝わりにくい。
また見落とされがちな論点として、発酵と「男性性」の問題がある。序文でポーランは火・水・空気の各章における師匠がことごとく男性だったと認めているが、発酵の章でも同様の傾向が続く。チーズ製造者に女性が多い点を原書は注記するものの、発酵の知識体系全体が現代では男性主導のクラフト文化(クラフトビール、アルチザンチーズ等)として再定義されつつある逆説を、本書はやや無批判に受け入れている。 — K