教養・コラム

脳は「ドラマチックな嘘」を信じる

yworks21@gmail.com

「思い出しやすさ」を「確率」と勘違いする脳

あなたは、飛行機事故で死ぬ確率と、糖尿病で死ぬ確率、どちらが高いと感じるだろうか。統計的事実は圧倒的に後者だが、多くの人は前者に強い恐怖を抱く。『ファストアンドスロー』の著者ダニエル・カーネマンはこれを「利用可能性ヒューリスティック(heuristic, 発見方法の意)」と名付けた。我々の脳(システム1: 速い思考)は、頻度や確率を計算する代わりに、「記憶から事例を思い出しやすいかどうか」で物事の起こりやすさを判断し、意思決定してしがちなのである。

メディアが繰り返し報道するセンセーショナルなニュース(テロ、墜落、殺人)は、鮮烈な映像とともに脳に焼き付き、非常に「思い出しやすい」情報となる。その結果、我々の世界認識は歪み、「世界は実際よりもはるかに危険でドラマチックな場所だ」と錯覚することになる。一方で、地味で静かに進行するリスク(病気や環境変化)は、ニュースになりにくいため、過小評価されてしまう。

感情がリスク計算を乗っ取る「感情ヒューリスティック」

さらに厄介なのは、この判断に感情が介入することだ。好きなもの(例えばバカンスや特定の技術)のリスクは低く見積もり、嫌いなもの(汚染や嫌いな政治家の政策)のリスクは高く見積もる傾向がある。論理的に考えれば、好き嫌いと危険性は無関係なはずだが、脳のシステム1(速い思考)は「自分がどう感じるか」を世界の真実だと混同してしまう。

夜のニュースを見ながら不安に駆られるとき、それは現実の脅威が迫っているからではなく、単にあなたの脳内で「恐怖の映像」へのアクセスが容易になっているだけかもしれない。直感的な恐怖は、必ずしも正しい警報ではない。むしろ、現代社会においては、我々の目を真の脅威から逸らせるためのノイズとして機能していることが多いのだ。

「見えないもの」を想像する力が理性を支える

利用可能性バイアスの罠から抜け出すには、「見えているもの」の裏側にある「見えないもの」を想像する力が必要だ。ニュースで報道されなかった無数の安全なフライト、記事にならなかった平凡な日常、話題にならないが着実に進行しているデータ。それらを意識的にテーブルに乗せなければ、公平な判断などできるはずがない。

組織の会議でも同じことが起きる。最近起きた失敗や、声の大きい人の意見ばかりが注目され、過去のデータや静かな警告は無視される。これを防ぐには、記憶に頼るのではなく、客観的な記録や統計を用いるしかない。システム2(遅い思考)を叩き起こし、鮮やかなエピソードの誘惑を振り払い、退屈な数字を直視するのだ。

恐怖をコントロールし、静かな夜を取り戻す

現代人は、スマートフォンを通じて24時間、世界中の悲劇を「利用可能」な状態にしている。これでは脳が休まる暇もなく、常に歪んだリスク評価に晒され続けることになる。情報の断食(デジタルデトックス)が推奨されるのは、単なる休息のためだけではない。脳内のデータベースを正常化し、バイアス・偏りをリセットするために必要なメンテナンスなのだ。

今日一日、あなたが感じた不安や怒りは、本当に世界の実像を反映していただろうか。それとも、単に「思い出しやすい」だけの幻影だっただろうか。情報の洪水から一歩距離を置き、自分の頭の中にあるフィルターを点検する。そうすることで初めて、我々は不必要な恐怖から解放され、平穏で理性的な夜を迎えることができる。

記事URLをコピーしました