イーロン・マスクの「妄想」と物理法則の復讐。ハイプの死骸を越えて【『Invention and Innovation』2/3】
「30分でロサンゼルスへ」という幻影
2013年、イーロン・マスクは「ハイパーループ」構想を発表した。真空チューブの中を音速に近い速度でカプセルが移動し、サンフランシスコからロサンゼルスを30分で結ぶという夢の技術だ。世界中の投資家が熱狂し、メディアは「移動革命だ」と書き立てた。だが、あれから10年以上が経ち、現実はどうなったか。主要な開発企業は事業を停止するか、旅客輸送を断念した。残ったのは、莫大な赤字と錆びついた試験チューブだけだ。
バーツラフ・シュミルは、著書『Invention and Innovation』の中で、この結末を当初から予見していた。彼は冷徹に指摘する。「真空を維持するエネルギーコスト、人体にかかるG(重力加速度)、そして熱膨張によるチューブの変形。これら物理的な壁は、ソフトウェアのアップデートでは解決できない」。私たちはシリコンバレーのプレゼンに酔いしれ、物理学という絶対的な憲法を軽視しすぎている。マスクの野望は魅力的だが、重力と空気抵抗は、億万長者の命令でも消えることはないのだ。
AIバブルは「デジタルのハイパーループ」か
「でも、マスクはEVや宇宙開発では成功したではないか」と反論があるだろう。確かにそうだ。しかし、ロケット工学は「難しい物理学」への挑戦だが、ハイパーループは「人間の生理的限界」や「採算性」を無視した妄想に近い。シュミルが警告するのは、この「ビジョン」と「妄想」の区別がつかなくなっている現状だ。
そして今、この構図はAI業界にそのままスライドしている。「生成AIが人間の仕事をすべて奪う」「シンギュラリティは来年だ」。ニュースフィードには毎日、終末論にも似た予言が並ぶ。だが、現場で起きていることは何か。ハルシネーション(嘘)の修正に追われ、著作権訴訟に怯え、膨れ上がるサーバーコストに悲鳴を上げている。ハイパーループが物理法則に復讐されたように、AIもまた、経済合理性とエネルギー問題という壁にぶち当たっている。私たちは再び、実体のない「期待」だけを消費させられていないか。
複雑なツールで「生産性」は上がったか
この「ハイプ(誇大広告)中毒」は、企業の巨大プロジェクトだけでなく、個人のデスクワークにも浸食している。私たちは「Notionの複雑なデータベース構築」や「AIによる全自動ワークフロー」こそが、生産性を劇的に向上させると信じ込んでいる。
しかし、冷静になってほしい。複雑怪奇なタスク管理ツールをメンテナンスするために、本来の仕事時間を削っていないか。Slackの自動通知ボットを設定することに夢中で、肝心のコミュニケーションが疎かになっていないか。これらは現代版のハイパーループだ。「理論上の最高速度」を出すために、現実の運用コスト(手間)を無視している。結局のところ、テキストファイルに箇条書きするだけの「枯れた技術」の方が、圧倒的に速く、エラーも起きない。私たちはツールに遊ばれているだけかもしれない。
電池のいらない「物理的現実」を腕に巻け
デジタルの虚構や、シリコンバレーの吹かす煙に巻かれないためには、どうすればいいか。シュミルのような「重力のある本」を読むことに加え、物理的な「アンカー(錨)」を持つことを勧めたい。私が愛用しているのは、Apple Watchだけではなく、『セイコーの機械式時計(メカニカル)』だ。
ここにはOSもなければ、通知機能もない。あるのは、ゼンマイと歯車が物理法則に従って時を刻む、微かな振動だけだ。充電も不要。あなたが動けば、時計も動く。この単純で堅牢なメカニズムは、「魔法などない。あるのは物理的な因果関係だけだ」という事実を、毎秒私の手首に伝えてくる。不便ではあるが、ハイプに踊らされそうになった時、この時計の針を見つめる。それは、浮足立つ精神を「今、ここ」の現実に引き戻してくれる、信頼できる重石となる。