稟議という日本独自のブラックボックス【『異文化理解力』3/6】
なぜ海外との交渉は突然停滞するのか
自社のビジネスを拡大するため、海外市場への進出や商品の輸出を試みることは、現代において自然な戦略である。その国境を越えた交渉の場において、私たちは相手の企業がフラットで現代的な組織構造を持っていれば、意思決定のプロセスも民主的で合意を重んじるはずだと勝手に想像してしまう。そして、相手側のすべての関係者に配慮し、全員が納得する丁寧な合意形成を図ろうと努力する。
しかし、海外のプロジェクト責任者がチームの意見を聞かずに重要な契約条件を独断で即決してしまう姿を目の当たりにして、強引で傲慢だとショックを受けた経験はないだろうか。あるいは逆に、私たちが「この件は一度社内に持ち帰って検討します」と伝えた瞬間、相手が露骨に苛立ちを見せ、プロジェクトが突如として停滞してしまうこともある。この深刻な摩擦は、語学力の不足や性格の不一致から生まれるのではない。意思決定という行為に対する、文化的な前提条件の決定的なズレから生じているのだ。
平等な組織ほど独断で突き進むという矛盾
『異文化理解力』の著者でINSEAD教授のエリン・メイヤーは、文化における「リーダーシップの階層性」と「意思決定の手法」は、必ずしも連動しないという衝撃的な事実を指摘している。私たちは無意識のうちに、階層的な組織はトップダウンで物事を決め、平等な組織はみんなで合意形成を図るものだと信じ込んでいるが、世界のビジネス地図はそのような単純な構造にはなっていないのである。
例えば、アメリカは世界でも有数の平等主義的な文化を持つ国である。社員は上司をファーストネームで呼び、階層に関係なくフラットに意見を戦わせる。しかし、意思決定に関しては非常にトップダウンである。上司はメンバーの意見を幅広く聞くが、最終的な決断は個人の責任で迅速に下し、チームはその決定に素早く従うことが求められる。彼らにとって、平等であることと、リーダーが独断で決めることは完全に両立する。スピードと明確な責任の所在こそが、グローバルビジネスにおける基本的な作法だからだ。
稟議という日本独自のブラックボックス
一方で、日本はこの地図において全く逆の極端な位置に存在している。私たちは年齢や役職、座席の順序に至るまで、非常に厳格な階層主義の文化を持っている。しかし、意思決定のプロセスとなると、強烈な合意形成型(コンセンサス重視)へと変貌を遂げる。その象徴が「稟議制度」である。一つの決定を下すために何週間もかけて各部署を回り、全員のハンコを集めることで、誰か一人が責任を負うリスクを徹底的に分散させているのである。
日本のチームが海外との交渉の最前線に立ったとき、この合意形成型の文化は致命的な足かせとなる。具体的には、担当者が「チームで持ち帰って検討します」と答えることは、トップダウンの文化圏の人々から見れば、目の前の人間に何の権限もリーダーシップも与えられていないという無能の証明に他ならない。私たちが慎重に社内の根回しをしている間、海外のパートナーは日本の意思決定のブラックボックスに不信感を募らせ、機敏に動ける別の取引先へと去ってしまうのである。
組織の階層を飛び越えて素早い決断を下せるか
あなたが海外のクライアントから即答を求められたとき、即座にイエスかノーを言えないその躊躇は、個人の能力不足ではなく、全員の同意を何よりも重んじる文化の重い呪縛である。私たちが厳しいグローバルビジネスの最前線で対等に渡り合うためには、社内の階層や調和に対する過剰な忖度を切り離し、交渉のテーブルにおいて誰が最終決定権を持っているのかを、プロジェクトの開始前に明確に定義するマインドセットが不可欠である。
意思決定のスピードを劇的に上げ、個人の裁量を最大化するための確かな指針として、リーダーが直面する絶望的な難局と生々しい決断のプロセスを描いた名著、ベン・ホロウィッツの『HARD THINGS』へと手を伸ばしてみてはどうだろうか。全員の同意を待つという安全な隠れ蓑をきっぱりと捨て去り、自らの責任で素早く決断を下すこと。そのリーダーとしての覚悟とスピードが、国境を越えた真の信頼関係を構築するはずだ。
『異文化理解力』シリーズ (全6回)




