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カナダの漁師が寿司の世界を変えた日【『スシエコノミー』1/6】

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世界中の「ごちそう」は、かつて何の価値もなかったものから生まれたのか?

私たちは今、世界中でさまざまな食材を当たり前のように口にする。はるか遠くの国で獲れた魚が、冷凍技術や航空輸送によって鮮度を保ったまま食卓に並ぶのは、もはや特別なことではない。しかし、その「当たり前」の裏には、革新的な技術と、ある漁師の挑戦があったことを知っているだろうか。『スシエコノミー』著者でジャーナリストのサーシャ・アイゼンバーグは、寿司が世界的な食文化へと変貌を遂げた背景に潜む経済と物流のドラマを描き出す。同著では、現代の食文化を形作った、忘れられがちな物語が数多く語られているが、その中でもとりわけ興味深いのは、かつて日本の食卓では見向きもされなかったマグロのトロが、いかにして世界的な珍味となったかの経緯である。

カナダの漁師が切り拓いた「空飛ぶ魚」の時代

1970年代、カナダの東海岸に位置するプリンスエドワード島には、豊かな漁場が広がっていた。しかし、そこで獲れる大型のクロマグロは、地元ではほとんど価値がないものとして扱われていたという。特に、その大きな身は重く、輸送が困難であったため、鮮魚として流通させることは現実的ではなかったのだ。そんな中、画期的なアイデアを実行に移したのが、あるカナダの漁師であった。

その漁師は、獲れたばかりのクロマグロを空輸で東京に送るという大胆な試みを始めた。当時はまだ珍しかった航空貨物を利用し、比較的短時間で大西洋を越え、日本の食卓にマグロを届けるという「空飛ぶ魚」の概念を具現化したのだ。この挑戦は、世界の食料供給システムに革命をもたらす最初のステップとなった。

「捨てる部位」だったマグロのトロが世界的珍味に

現代の日本では、マグロのトロは高級寿司の代名詞であり、そのとろけるような食感と濃厚な旨味は多くの人々を魅了する。しかし、『スシエコノミー』によると、1970年代以前の日本では、マグロのトロは一般的に「捨てる部位」とされていたという事実は驚きである。赤身に比べて傷みが早く、保存が難しかったため、漁師たちはトロの部分を捨てたり、肥料にしたりしていたのだ。

この漁師によって空輸されたカナダ産クロマグロは、その新鮮さゆえに、日本の市場で高い評価を受けた。特に、それまで価値を見出されていなかったトロの部分が、冷却技術と迅速な航空輸送によって鮮度を保ったまま届けられるようになると、その潜在的な価値が認識され始める。寿司職人たちがトロの美味しさに気づき、提供し始めたことで、一気にその需要が高まっていったのである。

築地市場で高い評価を得たカナダ産マグロと物流革命

プリンスエドワード島から東京へのマグロ空輸ルートが確立されると、そのビジネスモデルは急速に拡大した。当初、安価で取引されていたカナダ産マグロは、その品質と安定供給によって、次第に築地市場で高い評価を得るようになる。これは、単に食材の流通経路が変わっただけでなく、グローバルな物流システムが、これまで想像もつかなかった新たな経済価値を生み出した象徴的な事例である。

同氏は、航空貨物の発展が、寿司という日本の伝統的な食文化を世界中に広める上で不可欠な要素だったと指摘する。遠洋漁業が届ける魚に加え、空を飛ぶ魚が加わることで、寿司店は年間を通じて新鮮な魚介類を安定して供給できるようになり、結果として寿司のグローバル化が加速したのだ。この物流革命は、食の多様性を豊かにし、世界中の人々の食卓を一変させる原動力となった。

食のグローバル化がもたらした価値の再発見

あるカナダの漁師によるマグロ空輸が、プリンスエドワード島から日本へ、そしてかつて「捨てる部位」だったトロに新たな価値を見出した物語は、食のグローバル化が単なる地理的な距離の克服にとどまらないことを示唆している。それは、物流技術の発展が、これまで見過ごされてきた資源に光を当て、新たな経済的・文化的価値を創造するプロセスでもある。食の「ごちそう」が、いかにして私たちの食卓にたどり着いたのかを知ることは、日々の食事への感謝と、未来の食を考える上で重要な視点を与えてくれるだろう。

食と日本人の深い関わりをさらに知りたい方には、『魚と日本人』(濱田武士著)を手に取ってみてはどうだろうか。日本の漁業・水産業の歴史と現在を丹念に描いたこの一冊は、私たちの食卓と海のつながりを改めて問い直す視点を与えてくれるはずだ。

Kの視点

記事では「あるカナダの漁師」と匿名のように描かれているが、原書には実名と経緯が詳細に記されている。仕掛け人はJALのカーゴ担当アキラ・オカザキであり、カナダ側の実働者はプリンスエドワード島の魚の仲買人アルバート・グリフィンだ。グリフィンは正規の教育を受けておらず、アルコール問題を抱え、カードゲームに熱中する人物として描かれている。オカザキがこの男を選んだ理由は「買い手の要求を頭から尻尾まで忠実に守る」という一点だったと原書は記す。「空飛ぶ魚の日」の英雄像は、実のところ非常に泥臭い。

また記事は「トロが捨てられていた」という事実を強調するが、原書が指摘する本質はやや異なる。価値転換の引き金は二つの独立した動きが偶然に重なったことだ。一方では戦後の高度成長期に寿司が屋台飯から企業エリートの接待食へと格上げされ、江戸前の「その場で食べる」スタイルが鮮度への要求を高めた。もう一方ではニクソン・ショックによる円高で輸入コストが一夜にして15%下落した。物流革命単独ではなく、文化的地位の変化と為替の偶発的一致が価値を生んだという構造は、記事からは読み取れない。

さらに付け加えると、1972年8月の初競り当日、オカザキ自身が落札価格を「120円/kg」と聞き間違え、世界の終わりを感じたという挿話が原書にある。実際は1,200円だった。グローバル経済の転換点が、一人の男の聞き間違いで幕を開けた——この瞬間の喜劇性こそ、本書が単なるビジネス史を超えている理由だと思う。 — K

『スシエコノミー』シリーズ(全6回)

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