ユダヤ人がなぜ東京でラーメン屋を開いたのか【『アイバンのラーメン』1/6】
アメリカ人シェフが東京でラーメンに魅せられた理由とは
「ラーメン」と聞いて、あなたはどんなイメージを抱くだろうか。多くの日本人にとって、ラーメンは身近な国民食であり、時にソウルフードとも呼ばれる。だが、もしもあなたが異国の地で、その国の食文化に深く魅了され、やがて自ら店を構えることになるとしたら、それは計り知れない苦労と、驚くべき発見に満ちているに違いない。
『アイバンのラーメン』著者でシェフ・レストランオーナーのアイバン・オーキンも、まさにそのような稀有な経験をした一人である。同氏が日本文化と出会ったのは、15歳でニューヨーク郊外の日本料理店「Tsubo」で皿洗いを始めた時だった。1970年代のニューヨーク郊外で、日本料理店「Tsubo」の皿洗いとして働き始めた同氏は、大量の皿を洗い続ける日々は骨が折れたが、そこで働く陽気な日本人シェフたちの温かさに触れ、生の卵と醤油をご飯にかけた「たまごかけごはん」の美味しさに衝撃を受けた。この瞬間から、同氏の日本文化への深い愛情が芽生え始めたのである。
日本への憧れは次第に募り、やがて大学で日本文学を専攻するに至った。日本の奥深さに触れていった。そして大学卒業からわずか2週間後、同氏は日本への片道切符を手に飛び立った。この選択は、周囲からは衝動的で危険な決断に見えたかもしれないが、同氏にとっては4年間日本を学んだからには「逃げではなく必然の選択」であったと語っている。
孤独な「ガイジン」の東京サバイバル戦略
同氏が東京に降り立った際、驚くほど秩序整然とした街だと感じたという。日本語能力は流暢とは言えなかったが、同氏は東京で英語教師として働き始め、異文化に深く潜り込むことを決意する。同氏の孤独な戦略は、日本人と交流し、日本文化に溶け込むために「日本語しか話さない」という強い意地を持つことだった。
当時の東京には、英語教師の仕事を通じて来日した外国人たちが多くいた。彼らの中には、日本に居ながらにして英語圏のコミュニティに閉じこもり、日本語を話そうとしない者も少なくなかったという。だが、同氏は彼らのようにはなりたくなかった。異文化に足を踏み入れながら自文化の砦を築くことは、日本に対する「無礼」であると強く感じていたのである。
もちろん、異文化への適応は容易なことではなかった。言語の壁にぶつかり、日本の習慣に戸惑うことも多々あった。しかし、道を尋ねれば車に乗せて家にまで送ってくれ、食事まで振る舞ってくれる日本人の「揺るぎない寛大さ」に触れるたび、日本という国への愛着は深まっていった。時折、同氏はフラストレーションから「醜いアメリカ人」として振る舞い、歩行者ルールを無視したり、公共料金を不正に支払ったりすることもあったと告白している。しかし、日本人たちの優しさが、そんな同氏の醜さを常に引き戻してくれたという。
アジアの食文化に見出した「食は生活、西洋の食は儀式」という本質
同氏は、アジアの食文化に触れる中で、「アジアの食は生活の一部であり、西洋の食は儀式である」という本質に気づいていった。西洋の高級レストランでは、客は静かに皿を見つめ、料理を食べる。会話は次の料理が運ばれてくるまでの短い休憩中に交わされる「儀式」のようなものだ。しかしアジアでは、人々はテーブルを越えて手を伸ばし、食器を鳴らし、笑い、語り合いながら食事をする。食卓は常に活気に満ち、食事は一日の自然な延長線上にあるのだ。この気づきが、食事を友人たちと分かち合うことの「特別さ」を同氏に再確認させたのである。
東京での英語教師時代、同氏は定食屋に入り浸り、様々な日本料理を試していたが、ラーメンにはまだ手を出していなかった。ある日、友人に誘われ初めて味噌ラーメンを体験する。強烈な熱さと脂っこさに最初は苦痛を感じたものの、食べるうちにその複雑な旨味に魅了され、やがてラーメンは同氏の食生活に欠かせないものとなっていった。その頃のラーメンはまだ「ファストフード」としての位置づけが強かったが、同氏が一時帰国を経て再び日本に戻った頃には、熟練の職人たちの登場により、こだわり抜かれた「こだわるラーメン」が次々と生まれていた。同氏は、このラーメンの進化に強い「執着」を感じるようになるのである。
悲劇を乗り越え、ラーメンの道へ
順調だった同氏の人生に、ある日突然、悲劇が襲った。妻タミが第2子を妊娠中に急逝した。愛する妻と生まれるはずだった娘を同時に失い、同氏は深い悲しみに暮れた。しかし、幼い息子アイザックのためにも、同氏は強くあろうと決意する。数年が経ち、アイザックの成長を願う中で、同氏は再び日本との繋がりを求めるようになる。タミが亡くなって途絶えていた日本文化との接点を、息子にも与えたいと願ったのだ。
こうして日本への再訪を繰り返すうち、同氏は後に妻となるマリと出会う。運命的な再会を機に、同氏は家族と共に再び東京へ移住する。新たな生活の中、同氏はラーメンへの「執着」を募らせていく。東京のラーメンは、同氏が初めて食べた頃とは比較にならないほど進化し、「だし」や「麺」への探求は深まっていた。そして、妻マリの一言が同氏の背中を押す。「ラーメン店を開いてみてはどうか」
ラーメン店開業は、3年間もプロとして料理から離れていた同氏にとって、計り知れない挑戦だった。ラーメン作りに関する知識はゼロに等しく、東京という世界有数のラーメン激戦区で、外国人が成功することなど想像もできなかった。しかし、ラーメンへの尽きない好奇心と、マリの「どうなの?」という問いかけに突き動かされ、同氏はラーメン職人としての道を歩み始める。そして、同氏は日本人からも尊敬される「こだわるラーメン」の職人、島崎氏からヒントを得ながら、自身の「ダブルスープ」というコンセプトを完成させていくのである。
「当たり前」を疑い、異文化に飛び込む一歩を踏み出してみる
同氏の物語は、単なるサクセスストーリーではない。それは、異文化に飛び込み、自らの「当たり前」を疑い、ひたむきに情熱を傾け続けた一人の人間の記録である。同氏は日本人シェフたちが決して明かさないレシピの秘密を、独自の探究心と料理人としての経験で解き明かし、独自のラーメンを作り上げた。その過程で、同氏は異文化の中で自分自身のアイデンティティを見つめ直し、成長していった。ラーメンという一杯の丼に込められた同氏の哲学は、私たち自身の「当たり前」を問い直し、新たな一歩を踏み出す勇気を与えてくれるはずだ。
同氏の異文化に対する深い敬意と探求心、そして何よりもラーメンへの情熱が、海を越えて多くの人々の心を掴んだのである。そうした視点をさらに広げるための一冊として、『ラーメンの語られざる歴史』(ジョージ・ソルト著)を手に取ってみてはどうだろうか。ラーメンがどのようにして世界中で愛される料理へと進化していったのか、その知られざる歴史と文化的な背景を知ることで、ラーメンに対する見方がより豊かになるはずだ。
Kの視点
記事本文では「ダブルスープのコンセプト完成」という結果だけが語られているが、原書を読むと、そこに至る試行錯誤の具体性が際立つ。アイバンは開店3ヶ月前まで完成版のラーメンを一杯も作れておらず、麺のレシピが固まったのは開業わずか1週間前だった。「完璧への執念」というより、ギリギリまで試作を続けた職人的な泥臭さが実態に近い。
注目すべきは、麺メーカー担当者・シマモト氏の存在だ。本文では島崎氏(Shimazaki-san)からのヒントが強調されているが、原書を読む限り、麺の配合を実質的に決定づけたのはシマモト氏との共同作業である。タンパク含有量の異なる小麦粉を20種類以上試し、水分比率を1%単位で調整するプロセスは、「独学」というより「適切な専門家を見つける能力」がカギだったことを示している。異文化で何かを成し遂げる際に必要なのは孤独な探求より、誰を味方につけるかという判断かもしれない。
ラーメン批評家・大崎氏の証言も原書では生々しい。「外国人が美味しいラーメンを作るとは思っていなかった」と率直に告白した上で、アイバンが冷たいチャーシューをそのまま乗せず事前に温めていた点を最初の驚きとして挙げている。東京の激戦区で外国人が認められた瞬間は、劇的な感動ではなく、こうした細部の積み重ねによるものだった。 — K