【シーズン1 第4話】抱え込むほど、すべてが遅れていく|『バイバック・ユア・タイム』
著者:ダン・マーテル 著
書名:『バイバック・ユア・タイム』/原題 Buy Back Your Time(2023・本稿執筆時点で邦訳なし)
出版社:Portfolio(原書)
結論:抱え込むほど、自分にしかできない仕事に使う時間が消えていく。だから、人や道具に任せられることは手放し、空いた時間を本当に大事な一つに充てる。著者はこれを「時間を買い戻す」と呼ぶ。経営者向けの本だが、会社員が持ち帰るべき芯は「”自分でやったほうが早い”を手放す勇気」だ。
こんな人に読んでほしい
- 雑用に追われ、本当にやりたい仕事に手が回らない人
- 「自分でやったほうが早い」で、何でも抱え込んでしまう人
- 人に頼むのが苦手で、いつもキャパオーバー気味の人
おすすめ度(★★★★☆):経営者向けの本だが、芯の「手放す勇気」は会社員にも効く。抱え込み癖を自覚する入口として。
この記事の物語部分はフィクションです。登場人物・古書店・会話はすべて架空で、実在の人物・団体とは関係ありません。取り上げる書籍は実在しますが、作中の要約・解釈・批評は編集部による独自のもので、著者・出版社の見解を代弁するものではありません(正確な内容は原書でお確かめください)。それでは本書がもたらす「抱え込みを手放し、時間を買い戻す」という本質を路地裏の古書店を舞台にした物語で味わってください。
雑用に追われて進まない:選んだ方向へ一分も歩けない
ある朝、コツ太は温めていた企画書に新しいファイル名をつけ、デスクトップの中央に置いた。向ける先は自分で選んだはずだった。
だがそれからも、画面の中央を埋めていたのはその企画書ではなかった。開きっぱなしのチャット、共有フォルダ、未読の通知。資料の整理を頼まれ、いくつもの日程を調整し、鳴りやまない返信を打ちつづけた。五分で済むはずの用事が一日を食い荒らしていた。フロアでいちばん遅くまで残ってもあのファイルを開く時間は一分も生まれない。
その夜もコツ太は路地の灯りへ向かった。
今夜の茶
引き戸を開けると、紙とほこりの匂いがした。天井まで本を積んだ古書店だが、灯りにつられて腰を下ろした客には先生が一杯の茶を出す。本を選ぶでもなく、思い思いに夜を過ごしていく者が何人かいる。それがこの店の作法だった。今夜も先客がひとりいた。棚のそばの席で、中年の男が手元のノートに何かを書きつけている。先生は底の深い鉄瓶から湯を注いでいた。湯気が高く立ちのぼり、本の壁の手前でゆっくりと崩れていく。
「また来てくれたね。今夜は少し濃いめの煎茶にした」
差し出された茶は深い緑をしていた。コツ太は湯呑みを受け取り、ひとくち含んだ。熱がこわばった指にゆっくり染みた。
しばらく黙ってから、コツ太はぽつりと切り出した。
「この前ここで、向かう方向は自分で選んでいいと教わりました。それで、ずっと温めていた企画に本気で取りかかろうと決めたんです。やる気もあった。なのに、そのファイルを開く時間が一分も作れなくて」
「ほう。何に追われている」
「細かい用事です。ひとつひとつはなんてことない。でも数が多くて。気づくと一日がその処理だけで終わってます」
先生は鉄瓶を置き、コツ太の顔をしばらく見た。
「君は方向を選んだ。だが、選んだ方向へ向かう時間は別の何かに食われている。荷物を下ろさないまま、新しい道を歩こうとしているね」
図面を引きつづける客
その先客に、コツ太は目をやった。四十代だろうか。自営業らしい男が、椅子に深く腰かけ、分厚い方眼のノートを繰っていた。ページは几帳面な細い線で引かれた図面で埋まっている。どれも迷いのない線だった。先生が湯呑みに茶をつぎ足すと、男は鼻を鳴らした。
「図面なら、いくらでも引けるんだ。完璧なやつをね。問題は引いたあとだ」
男は誰にともなくそうこぼした。自分に向けられた言葉かどうか分からないまま、コツ太は思わず聞き返した。
「引いたあとに何があるんですか」
男はノートから顔を上げ、コツ太をちらと見た。独り言を拾われたのが少し意外そうだった。
「人に渡すと、思ったとおりにならない。だったら自分でやったほうが確実だ。そうやって抱えこんでいるうちに、このザマでね」
男は自嘲ぎみに手元のノートを軽く叩いた。何枚も付箋のはみ出した分厚く膨れたノートだった。先生は何も言わず、男の湯呑みに茶をつぎ足した。コツ太はその手の中のノートから目を離せなかった。几帳面な線で埋め尽くされているらしいのに、描いた本人は動けずにいる。デスクトップに置きっぱなしの一行も進んでいない自分の企画ファイルがふいに目に浮かんだ。
『バイバック・ユア・タイム』の逆転:時間を買い戻せ
先生は図面の男にちらと目をやってから、コツ太に向き直った。
「あの人も君と少し似ている。抱えこんで、動けなくなる口だ。ちょうどいい一冊がある」
そう言って、棚から本を抜いた。表紙には『バイバック・ユア・タイム』とあった。
「ダン・マーテルという、カナダ出身の起業家が書いた本だ。いくつも会社を立ち上げて、売ってきた男だよ。題はバイバック・ユア・タイム。時間を買い戻せという意味だ」
「時間を買い戻す」
「そうだ。この本のいちばん大事な一文はこうだ。事業を大きくするために人を雇うな。自分の時間を買い戻すために雇え」
コツ太は湯呑みを置いた。
「順番が逆ということですか」
「逆だね。多くの人はもっと成長させようとして、仕事を増やす。すると、こなす作業も増える。増えた作業で、また手が回らなくなる。著者はこの本の中で、ある経営者の話を書いている。会社はうまくいっているのに、本人は死にそうなほど消耗していた」
先生はページを一枚めくった。
「その経営者の時間はざっと一時間あたり100の値打ちがあった。なのに彼は一日のほとんどを一時間あたり10で誰かに頼めるような作業に使っていた。著者はこう書く。彼は毎時間、自分の会社に90ずつ損をさせていたのだとね」
「自分で、自分の足を引っぱってた」
「本人はいちばん働いているつもりでね。経営者なら、それは金の損だ。だが会社員の君にとっても損であることは変わらない」
「損、ですか」
「君は君にしかできない企画を期待されて、給料をもらっている。なのに、自分がやらなくても回る作業に時間を使っている。それは会社にとっての損だ。そして同時に、本来なら君を次の場所へ運んでいくはずの時間を自分の手で食いつぶしてもいる。君にしかできない企画と、ほかの形でも終わらせられる作業を君は同じ手で握りしめているんだ」
棚卸し、手渡し、満たす
「ではどうすればいいんです。雑用も誰かがやらなきゃ回らない」
先生は本の中ほどを指でなぞった。
「著者は三つの言葉でまとめている。棚卸し(Audit)、手渡し(Transfer)、満たす(Fill)。まず、自分の一日を棚卸しして、誰かに渡せる作業を見つける。次に、それを実際に手渡す。そして空いた時間を自分にしかできないことで満たす。それだけだ」
「言葉にすると、簡単そうですね」
「簡単だよ。難しいのは手渡すところだ。さっきの彼と同じでね。自分でやったほうが早いという気持ちがいつも邪魔をする」
先生は本を閉じ、まっすぐコツ太を見た。
「ひとつ言っておく。この本は人を雇える経営者のために書かれている。会社員の君が明日から部下を雇えるわけではない。それどころか、まだ若手の君は上司から雑用を回される側だろう。その立場で何もかも抱えるなというのも酷な話ではある。そこは割り引いて読みなさい。だが芯は雇うかどうかではない。自分にしかできない一つに時間を寄せて、ほかの誰かでもできることは頼むか、任せるか、仕組みにして手放す。雇うというのはその一つの形にすぎない。大事なのは手放す勇気のほうだ。いつだったか、放っておきなさい(Let Them)という本の話をしたろう。動かせない相手から手を引いて、その力を自分の側へ注ぎ直す。あれと根は同じでね。手放すからこそ、本当に握るべきものを握れる」
コツ太はその言葉を心の中でなぞった。手放す勇気。たしかに自分は雑用を手放すことを一度も考えたことがなかった。全部、自分でやるものだと思い込んでいた。
「時間というのは通貨のようなものだ、と著者は言う。耐えられない作業を抱え込みつづければ、逃げ出したくなる毎日が出来上がる。逆に、人に頼む手間や、一時の気まずさを引き受けて時間を買い戻せば、本来やるべき仕事に向かう時間が増えていく。どちらの毎日を作るかは自分で選べる」
先生は本を閉じかけて、ふと手を止めた。
「ひとつ、釘を刺しておく。この本は買い戻して空いた時間を何で満たせと言っていると思う」
「自分にしかできない、大事な仕事で、ですよね」
「半分はそうだ。だが著者の言葉はもっと正直でね。空いた時間はもっと金を生む仕事で満たせ、と書いてある。稼ぎが増えれば、また時間を買い戻せる。買い戻した時間で、さらに稼ぐ。著者はそれを上へ向かう終わりのない輪、と呼んでいる」
「終わりが、ないんですか」
「ないんだ。そこがこの本のいちばん危ういところでね。思い出してごらん。この本は働きすぎて心臓まで止まりかけた男の話から始まった。なのに処方箋はもっと効率よく回りつづける輪ときた。手放して空いた時間をすぐ次の野心で埋め直すなら、君はただ、もっと立派な檻を自分の手で組み直すだけだよ」
「じゃあ、何のために手放すんです」
「そこは君が決めることだ。空いた時間をまた仕事で満たしてもいい。だが、空けたまま、休むために使ってもいい。著者は前者しか書けない。輪が回らなくなるからね。手放す勇気は本物だ。ただ、買い戻したその時間まで、次の野心に明け渡すかどうか。そこだけは本に決めさせるな」
コツ太は手放したぶんの時間を自分が何で埋めるつもりでいたかを思い返した。答えはすぐには出てこなかった。
机が原稿で埋まっていた頃
先生は湯をつぎ足しながら、棚の一角に目をやった。
「私もね、編集者の頃は何ひとつ手放せなかった。若い者に任せれば早いと、頭では分かっていた。だが、自分でやったほうが確実だと思ってね。校正も著者への連絡も表紙の細かい指定まで、ぜんぶ抱えた」
「どうなったんですか」
「机が、原稿の山で埋まったよ。どの本も最後まで目が届かない。任せれば一人前に育ったはずの若い者はいつまでも雑用係のままだった。私が抱えた分だけ、一冊ずつが薄くなって、誰も育たなかった」
先生は湯呑みのふちを指でなでた。
「いちばん大事な仕事に、いちばん時間を使えていなかった。抱えることを頑張りだと勘違いしていたんだな」
手柄話の軽さはどこにもなかった。長く下ろせずにいた荷物の重さだけがあった。
全部自分でやったほうが早い
その口ぶりに引かれて、コツ太も白状した。
「実は僕、人に頼むのがものすごく下手で。まだ若手なこともあって、お願いするくらいなら自分でやったほうが早いって、いつも全部引き受けるんです。そのほうが相手にも迷惑をかけないと思って」
「それで、どうなった」
「キャパオーバーです。抱えすぎて、結局どれも遅れる。頼まなかったせいで、まわりを待たせて、かえって迷惑をかけてました。早いつもりが、いちばん遅かったんです」
「人に迷惑をかけまいと抱えたものがいちばん人を待たせていたというわけだ」
「そうです。今言われて、ぞっとしました」
コツ太が苦笑すると、先生も小さく笑った。隅の席では図面の男がいつのまにかノートを閉じ、帰り支度をしていた。「ご主人、今日も茶が旨かった」。男は先生に小さく会釈をして、引き戸の向こうへ消えた。完璧な図面を抱えたまま、その背中も夜の路地に溶けていった。
帰り道でひとつだけ手渡すと決めた
店を出ると、夜気が深く澄んでいた。路地を駅へ引き返しながら、コツ太はひとつだけ決めていた。明日、いつも自分で抱えている作業の中から、ひとつだけ手放してみよう。後輩にお願いして手順をきちんと教えるか、手作業の集計をツールやひな形に置き換える。まずは一つ、自分の手から離してみよう。
握りしめていた荷物をひとつ下ろす。簡単なはずのことがなぜか怖かった。汗をかいていない自分はサボっているのではないか。その後ろめたさが胸の隅から離れない。
ふと膨れたノートを抱えて路地へ消えていった男の背中が浮かんだ。あの背中とは違う道を選ぶ。コツ太はそう思いながら駅へ歩いた。
ひとつ、手放すと決めた。けれど、いざ手が空くと、コツ太は落ち着かなかった。楽をしているようで、後ろめたい。頑張っていない自分をまだ許せずにいた。コツ太はまた、あの灯りを訪ねる。
- 「もっと頑張る」と、人は仕事を増やす。増えた作業で手が回らなくなり、選んだ方向へ歩く時間が消える。
- 自分にしかできない仕事と、ほかの形でも回る作業を同じ手で握りしめていないか。
- やることは三つ。棚卸し(渡せる作業を見つける)、手渡し(実際に任せる)、満たす(空いた時間を自分にしかできないことに充てる)。
- 月曜の一歩:今日の雑用をひとつだけ選び、「自分でやったほうが早い」を一度だけ手放す。後輩に頼んでもツールやひな形に置き換えてもいい。
自分でやったほうが早い。私は長くそう信じて、何でも抱え込んできた。人に頼む数分の手間や、思いどおりにならない気まずさが、どうしても惜しかった。だが抱えた分だけ、本当に自分にしかできない仕事はいつも後回しになった。手放すのは怠けることではない。誰かに、あるいは道具に任せられるものを任せて、空いた時間を自分にしか彫れない一つへ寄せることだ。今の私も毎日その線引きを試している。うまくはない。それでも抱え込みを頑張りと取り違えていた頃より、ずっと前に進めている。同じ癖に覚えのある人にこそ、この本を薦める。
もっとも、鵜呑みにはできない。本書は時間に値段をつけて損得を計算させるが、世の中には値段のつけられない時間もある。子どもを寝かしつける時間、同僚との他愛ない雑談。時給では測れないし、測れないからこそ大切なものもある。すべてを効率で切り分ければ、いちばん手放してはいけないものまで物差しからこぼれ落ちる。それに、家事も雑用も人に任せ、好きなことだけに人生を使うという理想はもともと大きな事業を持つ著者だからこそ成り立つ面もある。雑事の手触りや、その中にある誰かとの何気ない接点ごと手放した先に、自分はどんな顔で立っていたいのか。そこは本に決めさせず、自分で決めたい。
この本もいまのところ邦訳はない。前にも書いたとおり、この店に英語の自己啓発書が多いのは、いまの私の語学力で無理なく通読できるのがちょうどこのあたりだから、という事情も少しある。
人に任せて時間を取り戻すには、その前に“相手を思いどおりにしない”という覚悟がいる。その土台になる考え方を扱ったのが、シリーズ第2話の一冊だった。

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